三四三空
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1944年12月、第三四三海軍航空隊(343空、剣部隊)戦闘301飛行隊(新撰組)に参加。笠井によれば、開隊まで横須賀航空隊に仮入隊で訓練に入ったため、全員分の寝具もない状態で、隊員は毎日外出許可をもらって基地外で宿泊し、それを咎められたが、隊員はそれに構わず外出を続けたという。隊長の菅野大尉がどこかいい基地はないかと尋ねた際に、笠井は263空所属時に滞在した松山基地を推薦した。理由として飛行場がいいこと、松山の人達が親切なことを挙げた。菅野はすぐ紫電で松山に飛び、翌日上機嫌で松山に決めたという。また、笠井は当時体が大きくなり、体重も90kg近くになっていたので、菅野隊長から戦闘機操縦員としては重すぎるから艦爆に移れと言われ、それを本気にした笠井はその晩、菅野に戦闘機に残してくださいと泣いて頼みに行ったという。1945年(昭和20年)1月に杉田庄一が343空に着任すると、笠井は杉田区隊の二番機として杉田に学びながら後輩の指導も行った。 3月19日、343空は呉空襲邀撃戦が初陣となった。当日、笠井は下痢腹痛のため兵舎で寝ていたので、杉田に「お前みたいな奴は俺の列機にはいらん、卑怯者、そんなに怖かったら搭乗員をやめろ」と叱られ、笠井はどうしていいかわからず、泣いて謝ったという。 沖縄戦の開始に伴い343空は鹿屋に進出。4月12日、笠井はF6Fの2機撃墜を報告するが、杉田から「ちゃんと海に落ちたのを確認したか、確かに煙を噴いてはいたが、あれは向こうが逃げただけで不確実だ」と叱られた。また杉田の二番機だったのに編隊を離れたため、滅多に手を上げる人ではなかったが、この時はビンタを2、3発受けたという。笠井は杉田が乱戦の中でも逸れた自分を見ていてくれたことが有り難かったという。 4月15日、敵機接近の報を受け、343空は迎撃態勢に入るが、来襲したF6Fが近距離まで迫っていた為中止が命じられた。大部分は命令に間に合い、発進をとどまったが杉田隊は既に発進態勢に入っており、杉田機は発進の途中に撃墜され戦死した。宮沢豊美一飛曹の搭乗する三番機も杉田にF6Fが気を取られているすきに発進したが、直後に被撃墜、宮沢は戦死した。笠井は、整備員が戦闘機のチョーク(車止め)を外さずに避難したので脱出したという。直後に笠井機は敵の攻撃で破壊された。笠井によれば、中止命令はその時までに届いていなかったという。 4月17日頃、鹿屋基地から10メートルほど離陸した笠井は発動機の故障で小山に激突し右足を骨折し、霧島の海軍病院に半月ほど入院した。源田実司令と志賀淑雄飛行長が缶詰を持って直々にお見舞いに来たことに感動したという。早く復帰したい笠井は無理矢理帰隊したが、菅野隊長に「走ってみろ」と言われたが、足を引き摺って、まともに走ることが出来なかった為、「そりゃ駄目だ」と言われ湯治に戻された。
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三四三空
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1944年12月、第三四三海軍航空隊(剣部隊)戦闘301飛行隊(新撰組)に配属。宮崎は新撰組という隊名に気概を持ち「我こそは近藤勇なり」と言っていた。隊長の菅野直大尉と懇意であり、たびたび2人で外出した。ある晩、菅野に誘われて無断外出をして温泉へ行った際、温泉で司令の源田実大佐とはち合わせた。無断外出は明らかな違反行為で小さくなった2人に源田司令は「温泉はいいのう、気をつけて帰れよ」と声をかけ、咎めなかったという。 1945年(昭和20年)3月19日、呉に来襲した米機動部隊艦載機の邀撃が343空の初陣となったが、宮崎は出撃第二陣の配置であったため、会敵の機会はなかった。その後、343空は鹿屋・国分・大村と移動し、沖縄作戦・本土防空戦闘任務に従事する。宮崎は長崎原爆を目撃し、343空での救助活動に参加しており、そのせいか戦後白血球が弱くなったという。 1945年8月15日終戦。9月5日、ポツダム進級で少尉任官、予備役編入。宮崎は単独共同撃墜約120-130機と語っている。総撃墜数を13機以上とする文献もある。作家の神立尚紀によれば、宮崎の実戦参加回数は全戦闘機搭乗員の中でも一番多いほうに数えられるという。
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