予備役編入
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「東條英機#石原莞爾中将を予備役編入」も参照 石原は、昭和13年(1938年)6月に、病気を理由に関東軍参謀副長を辞任したいと申し出て、人事発令を待たずに内地に帰国して入院してしまう、という暴挙に出た。石原は特に処分を受けずに同年12月に舞鶴要塞司令官に補され、昭和14年(1939年)8月には陸軍中将に進級して第16師団長に親補された。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。
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予備役編入
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「フランクリン (空母)」の記事における「予備役編入」の解説
「フランクリン」は飛行甲板など上部構造物の大半を撤去・再構築する大規模な修理が必要となり、修理中に終戦を迎えた。海軍記念日には一般公開されている。なお、修理中の1945年6月21日にはボイラー室で火災事故(損害軽微)、1946年5月14日には炭酸ガス漏出事故(死者2名)が発生している。 1946年4月、修理が完了に近づき、第4艦隊に配属が決まり整調航海が待たれていたところに、「フランクリン」を予備艦隊である第16艦隊に移す旨の通知が来た。大戦終結に伴う海軍縮小のためであり、他の同型艦の多くも同じように予備役に編入されていった。修理は1946年6月14日に完了したが、そのまま予備役となり、1947年2月17日よりニュージャージー州ベイヨンでモスボール処理のうえ保管された。 「フランクリン」はその後、現役復帰や改装が一切なされなかった。これは同型艦の「バンカー・ヒル」も同様である。両艦とも大戦中に大破して復帰が間に合わなかったという共通点はあるが、損傷は首尾よく修復され良好な状態にあり、核攻撃任務を視野に入れた徹底的な大改装("Ultimate" Reconstruction)の候補として温存されていた。しかしながら改装の実施は見送られ、結局は立ち消えとなってしまった。この計画がしばらく残っていたため、SCB-27等の改装対象から外され、現役に復帰することもなかった。もっともSCB-27改装のための調査は行われており、1950年8月には「予備役のなかでも状態がとりわけ良い艦であり、改装費用は他の艦に比べ少なく済む」と評価されている。 「フランクリン」は1952年10月1日に攻撃航空母艦(CVA-13)、1953年8月8日に対潜水艦戦支援空母(CVS-13)、1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-8)へと艦種変更されたがいずれも形式的なもので、結局は保管状態のままであった。 1959年1月には、同型艦「ヴァリー・フォージ」が飛行甲板を損傷し、早急に修復するため飛行甲板左前方30×90フィート(9.1 m×27.4 m)の部分を保管中の「フランクリン」から移植することになった。「ヴァリー・フォージ」に提供した甲板部分には、「フランクリン」を記念して銅製の飾りが取り付けられた。
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