予備役編入の危機とは? わかりやすく解説

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予備役編入の危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

米内光政」の記事における「予備役編入の危機」の解説

1930年昭和5年)、任 海軍中将、鎮海要港部司令官。この役職は「首5分前」と言われ閑職であり、鎮海要港部司令官最後に予備役編入された例が多かった米内読書三昧日々過ごしたという。 鎮海要港部司令官在任中の米内現役離れることを覚悟しており、実際に海軍米内予備役編入する予定であった。しかし、海軍政務次官務めていた政治家牧山耕蔵米内面識があった)がそのこと知り米内現役に残すように東郷平八郎掛け合ったことで、米内予備役編入免れた1932年昭和7年)、第三艦隊司令長官親補される。米内インフルエンザこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが拒絶した海軍次官だった藤田尚徳軍令部次長高橋三吉相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍将来考える時必ずこの人大任託す時期が来ると思う。今米内君再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ち蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論達し海軍次官軍令部次長権限米内療養させた。早期治療効果1か月後には米内職務復帰することができた。のちに藤田高橋は、米内現役大将として残すため、自ら予備役編入願い出ている。 幕僚保科善四郎によれば砲艦二見揚子江航行中暗岩乗り上げてしまい、司令長官である米内責任取り進退伺電報を打つよう保科命じた米内辞めさせてはならない考えた保科は、電報打ったフリをして独断握り潰した。この措置なければ後に日本本土決戦突入することになった、と保科語っている。

※この「予備役編入の危機」の解説は、「米内光政」の解説の一部です。
「予備役編入の危機」を含む「米内光政」の記事については、「米内光政」の概要を参照ください。

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