予備役編入の危機
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1930年(昭和5年)、任 海軍中将、鎮海要港部司令官。この役職は「首5分前」と言われた閑職であり、鎮海要港部司令官を最後に予備役に編入された例が多かった。米内は読書三昧の日々を過ごしたという。 鎮海要港部司令官に在任中の米内は現役を離れることを覚悟しており、実際に海軍は米内を予備役編入する予定であった。しかし、海軍政務次官を務めていた政治家の牧山耕蔵(米内と面識があった)がそのことを知り、米内を現役に残すように東郷平八郎に掛け合ったことで、米内は予備役編入を免れた。 1932年(昭和7年)、第三艦隊司令長官に親補される。米内はインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが拒絶した。海軍次官だった藤田尚徳は軍令部次長・高橋三吉と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。早期治療の効果か1か月後には米内は職務に復帰することができた。のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら予備役編入を願い出ている。 幕僚の保科善四郎によれば、砲艦二見が揚子江を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。米内を辞めさせてはならないと考えた保科は、電報を打ったフリをして独断で握り潰した。この措置がなければ後に日本は本土決戦に突入することになった、と保科は語っている。
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