一軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:04 UTC 版)
軍令部の権限強化を図るべく博恭王が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に対し、井上成美は自らの軍務局第1課長の職を賭して激しく抵抗し、結果として更迭された。井上は横須賀鎮守府付となり、待命・予備役編入の危機にさらされた。しかし大佐昇進後5年目にして戦艦比叡艦長に補され、艦長の任期は通常1年のところを2年務めて少将に進級している。井上が予備役編入されずに比叡艦長に栄転したのは、博恭王が敵であったはずの井上について「井上をよいポストにやってくれ」と海軍人事当局に口添えしたためだという(井上本人が、当時の海軍省人事局第1課長であった清水光美から聴取した。なお異説もある。)。 海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には、皇族らしからぬ逸話が残っている。入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。 嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好み、吉田俊雄「四人の軍令部総長」(文春文庫)によると、海軍省食堂での昼食時における博恭王の好物は天ぷらうどんだったという。また、軍令部総長の在任が長い事に掛けて、海軍部内では特徴的な長い顔から「長面君(ちょうめんくん)」と渾名を付けられていた。 博恭王の岳父は徳川慶喜であったが、あるとき艦内で士官たちが幕末の議論をしていて誰かが徳川慶喜を激しく批判したことがあった。その際に博恭王は黙って席を立ったが、後にその士官が謝罪に来たときに、「いや気にすることはない、勉強になった」と声をかけたという。 また臣籍降下した四男伏見博英が1943年に戦死した際、戦死者合同葬で博英の霊位を最上位に置こうとした海軍当局の動きを止め、あくまで海軍の階級順とさせた。
※この「一軍人として」の解説は、「伏見宮博恭王」の解説の一部です。
「一軍人として」を含む「伏見宮博恭王」の記事については、「伏見宮博恭王」の概要を参照ください。
- 一軍人としてのページへのリンク