比叡艦長とは? わかりやすく解説

比叡艦長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

井上成美」の記事における「比叡艦長」の解説

詳細は「大角人事」を参照 9月20日井上横須賀鎮守府となった予備役編入前提とするような辞令だったが、伏見宮が「井上をよいポストにやってくれ」と口添えしたため、井上予備役編入されず、11月15日付で練習戦艦「比叡」艦長補された。 井上は、比叡若手士官国粋思想の影響受けた会合出席するのを禁じたその上で軍人勅諭」を平易に説いた冊子勅諭衍義」を「比叡」乗組の士官全員配布した。この「勅諭衍義」は後に井上兵学校長に着任した際にも、教官幹事参考資料として配布された。その際井上が自らつけた説明文に「本稿記述当時昭和9年)は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代[之は少々過言かも知れず然し本職左様考えて対処せり]なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」とある。井上は「比叡」の若手士官たちに「軍人平素でも刀剣帯びることを許されているのは、国を守るという極めて国家的な職分担っているからである。統帥権発動もないのに勝手に人を殺せということではない」と繰り返し諭した1934年昭和9年)、三浦半島西側横須賀市反対側の長井町相模湾一望できる海岸面した崖縁井上の家が完成した比叡ロンドン海軍軍縮条約により練習戦艦となっており、横須賀鎮守府所属警備艦で、横須賀軍港に在泊していた。比叡艦内起居する井上は、毎週末には長井新宅戻った一人娘の靚子は、東京西大久保親戚阿部信行陸軍大将宅に寄宿して東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)に通っていたが、週末には長井井上宅に戻ってきて、父娘二人で水入らずの生活を楽しんだ夏休みには、靚子が女学校友達連れてくることもあった。 1935年昭和10年4月1日井上大連港桟橋に「計算尺操艦しているようなやり方で」ぴったり接舷させて、大連港港務部長に「戦艦本港横付けしたのは初めてです」と操艦の腕を賞賛された。当時戦艦のような大型艦船は入港しても、直接接岸試みると接触時に艦体に大きな破損惧れがあるため、沖合い錨泊するのが普通だった井上は、翌朝まで帰艦しない予定上陸した従兵長の下士官が、その隙に艦長室ベッド熟睡してしまった。予定切り上げて帰艦した井上がこれを見つけたが、誰にも言わなかった。懲罰受けず済んだ従兵長は井上恩情長く徳とした。 また、井上比叡飛行長今川福雄大尉の操縦する94偵にしばしば同乗した。飛行科出身でない艦長が、搭載機同乗するのは異例であった井上親しく接した今川は、井上人格惚れ込み井上了解得て井上の名前「成美」にあやかって息子を成雄(しげお)、娘を美子(よしこ)と名付け戦後も度々井上宅を訪ねた井上によると、大尉時に航海長務めた淀(常備排水量1,450トンのような小さなフネなら酔わないのに、フネ大きくなるほど酔いやすかった。比叡艦長の時には戦艦艦長たる者が航海中に船酔い寝ている訳には行かず一番困ったという。

※この「比叡艦長」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「比叡艦長」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。

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