比叡艦長
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詳細は「大角人事」を参照 9月20日、井上は横須賀鎮守府付となった。予備役編入を前提とするような辞令だったが、伏見宮が「井上をよいポストにやってくれ」と口添えしたため、井上は予備役編入されず、11月15日付で練習戦艦「比叡」艦長に補された。 井上は、比叡の若手士官が国粋思想の影響を受けた会合に出席するのを禁じた。その上で「軍人勅諭」を平易に説いた冊子「勅諭衍義」を「比叡」乗組の士官全員に配布した。この「勅諭衍義」は後に井上が兵学校長に着任した際にも、教官兼幹事に参考資料として配布された。その際に井上が自らつけた説明文に「本稿記述の当時(昭和9年)は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代[之は少々過言かも知れず、然し本職は左様考えて対処せり]なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」とある。井上は「比叡」の若手士官たちに「軍人が平素でも刀剣を帯びることを許されているのは、国を守るという極めて国家的な職分を担っているからである。統帥権の発動もないのに勝手に人を殺せということではない」と繰り返し諭した。 1934年(昭和9年)、三浦半島の西側、横須賀市の反対側の長井町の相模湾が一望できる海岸に面した崖縁に井上の家が完成した。比叡はロンドン海軍軍縮条約により練習戦艦となっており、横須賀鎮守府所属の警備艦で、横須賀軍港に在泊していた。比叡艦内に起居する井上は、毎週末には長井の新宅に戻った。一人娘の靚子は、東京・西大久保の親戚の阿部信行陸軍大将宅に寄宿して、東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)に通っていたが、週末には長井の井上宅に戻ってきて、父娘二人で水入らずの生活を楽しんだ。夏休みには、靚子が女学校の友達を連れてくることもあった。 1935年(昭和10年)4月1日、井上は大連港の桟橋に「計算尺が操艦しているようなやり方で」ぴったり接舷させて、大連港港務部長に「戦艦が本港に横付けしたのは初めてです」と操艦の腕を賞賛された。当時、戦艦のような大型艦船は入港しても、直接接岸を試みると接触時に艦体に大きな破損の惧れがあるため、沖合いに錨泊するのが普通だった。井上は、翌朝まで帰艦しない予定で上陸した。従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまった。予定を切り上げて帰艦した井上がこれを見つけたが、誰にも言わなかった。懲罰を受けずに済んだ従兵長は井上の恩情を長く徳とした。 また、井上は比叡飛行長今川福雄大尉の操縦する94式水偵にしばしば同乗した。飛行科出身でない艦長が、搭載機に同乗するのは異例であった。井上と親しく接した今川は、井上の人格に惚れ込み、井上の了解を得て、井上の名前「成美」にあやかって息子を成雄(しげお)、娘を美子(よしこ)と名付け、戦後も度々井上宅を訪ねた。 井上によると、大尉の時に航海長を務めた淀(常備排水量1,450トン)のような小さなフネなら酔わないのに、フネが大きくなるほど酔いやすかった。比叡艦長の時には、戦艦の艦長たる者が航海中に船酔いで寝ている訳には行かず一番困ったという。
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