御召艦改装
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練習戦艦当時の比叡で勤務した経験を持つ吉田俊雄は当時の姿を『お年寄り』、『生き残る為に、身をやつす。そんな悲痛な感じが比叡にあった』と表現し、後の艦長である西田正雄も改装された比叡を見て涙ぐんだという。他方、井上成美は生涯で最も愉快な時期を比叡艦長時代とし、海軍省軍務局長時代には御召艦比叡の油絵を飾っていた。比叡は練習戦艦となった際の兵装の撤去により艦内に余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュールの組みやすいことから昭和天皇の御召艦として利用された。1933年(昭和8年)5月には展望台を設けるなど、御召艦用施設の設置工事を横須賀工廠で行った。比叡はこの年の横浜沖大演習観艦式と1936年(昭和11年)神戸沖特別大演習観艦式、また戦艦に復帰した第二次改装直後の1940年(昭和15年)10月11日における紀元二千六百年特別観艦式の合計3回、観艦式での御召艦を務めている。また1935年(昭和10年)には宮崎、鹿児島行幸の際の御召艦を、更に同年4月の満州国皇帝 愛新覚羅溥儀の訪日の際にも御召艦となっている。1936年(昭和11年)2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府の井上成美参謀長が米内光政司令長官に「万一の場合は陛下を比叡に御乗艦願いましょう」と進言しており、より深刻な事態になった場合は昭和天皇が「比叡」から指揮を執る事態もありえた。同年には北海道で行われる陸軍大演習に際し、天皇を横須賀から小樽まで送り届けた。 御召艦としての比叡は切手に描かれ、写真週報でも報道されるなど、戦前の日本海軍を代表する軍艦であった。これらにより戦前では長門型戦艦、高雄型重巡洋艦と同じくらい親しまれた艦であったという。紀元二千六百年記念観艦式に参列した吉川英治は御召艦比叡を見て「軍艦の芸術味、美しさと荘重さとのとけ合つた此の素晴しさ」と感嘆している。その一方、御召艦に指定されると2週間上陸が禁止され、新造艦同様の状態になるまで艦内徹底補修と清掃が行われるため、乗組員達にとっては苦労が多かった。また、天皇旗を掲げた御召艦には遭遇した艦に対する敬礼の必要がなく、逆に相手艦は御召艦に対し登舷礼式、君が代演奏、万歳三唱をしなければならなかった。
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