御召艦改装とは? わかりやすく解説

御召艦改装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 09:34 UTC 版)

比叡 (戦艦)」の記事における「御召艦改装」の解説

練習戦艦当時比叡勤務した経験を持つ吉田俊雄当時の姿を『お年寄り』、『生き残る為に身をやつす。そんな悲痛な感じ比叡にあった』と表現し、後の艦長である西田正雄改装され比叡見て涙ぐんだという。他方井上成美生涯で最も愉快な時期比叡艦長時代とし、海軍省軍務局長時代には御召比叡油絵飾っていた。比叡練習戦艦となった際の兵装撤去により艦内余裕のあること、また艦隊所属でないためスケジュール組みやすいことから昭和天皇御召艦として利用された。1933年昭和8年5月には展望台設けるなど、御召艦用施設設置工事横須賀工廠行った比叡この年横浜大演習観艦式1936年昭和11年神戸特別大演習観艦式、また戦艦復帰した第二次改装直後1940年昭和15年10月11日における紀元二千六百年特別観艦式合計3回観艦式での御召艦を務めている。また1935年昭和10年)には宮崎鹿児島行幸の際の御召艦を、更に同年4月満州国皇帝 愛新覚羅溥儀訪日の際にも御召となっている。1936年昭和11年2月二・二六事件では、横須賀鎮守府井上成美参謀長米内光政司令長官に「万一場合陛下比叡に御乗艦願いましょう」と進言しており、より深刻な事態になった場合昭和天皇が「比叡」から指揮執る事態もありえた。同年には北海道行われる陸軍演習際し天皇横須賀から小樽まで送り届けた御召としての比叡切手描かれ写真週報でも報道されるなど、戦前日本海軍代表する軍艦であった。これらにより戦前では長門型戦艦高雄型重巡洋艦同じくらい親しまれた艦であったという。紀元二千六百年記念観艦式参列した吉川英治御召比叡見て軍艦芸術味、美しさ荘重さとのとけ合つた此の素晴しさ」と感嘆している。その一方御召艦に指定される2週間上陸禁止され新造艦同様の状態になるまで艦内徹底補修清掃が行われるため、乗組員達にとっては苦労多かったまた、天皇旗掲げた御召艦には遭遇した艦に対す敬礼の必要がなく、逆に相手艦は御召艦に対し登舷礼式、君が代演奏万歳三唱をしなければならなかった。

※この「御召艦改装」の解説は、「比叡 (戦艦)」の解説の一部です。
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