御台所の立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:54 UTC 版)
将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室の江(江与)を迎えた2代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、(1)摂家の姫(2)世襲親王家の姫(3)皇女 から迎える慣例となっていた。11代家斉御台所の寔子と13代家定御台所の敬子は、武家である島津家の出身であるが、両人とも摂家である近衛家の養女となった上で「摂家の姫」として輿入れしている。これは、御台所に格式が求められたためなされた処置であると考えられる。 また、正式の側室を持たなかった2代秀忠御台所のお江与の方が3代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは、皇室や公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされる。しかし、実際には御台所が子を産んだ実例もあり、結果論的な側面もある。 御台所は大奥の主宰者であるが、江戸時代前期の大奥における実権は御年寄や上臈御年寄などの老女や世継ぎを産んだ側室、将軍生母や将軍乳母などが握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。 しかし、6代家宣の時代に改革がなされて、御年寄や側室の住居は「長局向」だけに留められた。更に側室の位置づけがあくまでも臣下とされるようになり、御台所は側室の産んだ子の嫡母の待遇を受けるようになるなど、御台所の扱いは大きく改善されていった。生母に対しても、将軍家内での順位は生母が最も低いため、御台所の権威を生母が揺るがすことはなかった。 夫たる将軍が亡くなった場合は落飾して西丸へと移り、将軍の菩提を弔い余生を過ごすこととなっていた。それでも時代によっては多大な影響力を保持し続けた例もある。ちなみに正室によっては、立場上の問題や大奥入りしなかったために御台所と呼称されなかった者もいる。例えば3代将軍・家光の正室である鷹司孝子は、家光と不仲のため別居をして、大奥ではなく中之丸御殿に住居したため、「御台様」ではなく「中の丸殿」と呼ばれ、世子家綱(4代将軍)の嫡母の扱いもなされなかった。
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