上臈御年寄とは? わかりやすく解説

上臈御年寄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:53 UTC 版)

上臈御年寄(じょうろうおとしより)は、江戸時代大奥女中の役職名。単に上臈と称されることもある。将軍御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位。京都の公家出身であるが、生家の名前とは関係なく、姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などの名前を代々受け継いでいった。

職務と立場

上臈御年寄は、儀礼や年中行事を司る立場にある老女に含まれる役職であった。もっとも、公式儀礼においては将軍付老女が差配したため、御台所付上臈御年寄は、主に御台所の相談役となった。そのため、有職故実に長けた京の公家出身の女中がこの役職に就くことが多く、彼女たちのほとんどは御台所や御簾中の輿入れに伴って奥入りしたと考えられている[1]

奥女中の階級の中では最上位に位置する上臈御年寄だが、大奥の中で実権を持つことはあまりなかったとされる。このため、本来は上臈御年寄よりも下位の御年寄が大奥の最高権力者となり、大奥における大事小事を差配した。しかし、綱吉時代の右衛門佐局家宣家継時代の豊原家治に仕えた松島、家治と家斉に仕えた高岳家慶時代の姉小路家定時代の歌橋など、上臈御年寄でありながら幕政や幕府人事をも左右するほどの権力を握った者もおり、単純に「権力を持たなかった」とは言い切れない。

脚注

  1. ^ 将軍付上臈御年寄も元は御台所付であったこともある。14代家茂時代後期の将軍付上臈御年寄・錦小路は、元は正室和宮付であったと考えられる。

上臈御年寄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 15:44 UTC 版)

徳川家茂付き大奥女中」の記事における「上臈御年寄」の解説

万里小路までのこうじ詳細は「万里小路局」を参照 飛鳥井あすかい1818年 - 1888年)は、幕末江戸幕府大奥女中平松時門娘。宿元三枝靭負。徳川家定世子時代から上臈御年寄として西の丸仕え嘉永6年1853年家定将軍となる本丸に移る。安政5年1858年家定没すると、継いで将軍となった家茂付きの上御年寄筆頭となった文久3年1863年11月隠居慶応2年1866年家茂没する出家した花園はなぞの生没年不詳)は、幕末江戸幕府大奥女中宿元本多主殿正。 出身京都。上臈御年寄は公家の娘を出自とすることが多いので、花園も同様と思われる文久2年1862年14代将徳川家茂正室として下降した和宮に従って江戸城入り家茂の上御年寄勤めた文久3年1863年)他の大奥女中とともに大奥解雇され京都戻った

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