かず‐の‐みや【和宮】
和宮親子内親王
(和宮 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 13:37 UTC 版)
親子内親王(ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
- ^ 『礼記』の「婦準備わりて后(のち)に内和(やわ)らぎ理(おさ)まる」の記述からとった
- ^ 出自が定かではないが京都町奉行与力となり御用の筋を使って権門に出入りし策謀を巡らせ、その一方で久我建通、酒井忠義にも可愛がられていた。いわゆる井伊派の工作員の一人とされ、井伊没後も京都政界の裏面で活躍した。中根雪江の『昨夢紀事』は文久2年8月25日の内容として桂小五郎が加納を嫌悪していた点を伝えている。
- ^ 日本史籍協会刊『九条尚忠文書四』
- ^ これは段階的に立てられた条件であり、最終的に和宮の上洛は「1年に1度上洛させる」という最初の条件から7年が経過していた。
- ^ 『礼記』の「君臣正しく、父子親しみ、長幼和らぎて、后、礼儀立つ」よりとった
- ^ 草津宿本陣蔵『仁孝天皇御末女和宮様御下向御列書』
- ^ 『礼記』の「文にして静 寛にして辨(べん)あり」からとられた。
- ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメ(BS-TBS、2015年3月9日放送)でも紹介された。
- ^ 1960年代、当時98歳の平塚きわという老婆が幼いころ、村の子供たちを招待して菓子を振舞った和宮の思い出を、箱根塔ノ沢「環翠楼」(和宮が滞在した。当時は「中田暢平旅館」)の中野敬次郎に語っている。平塚きわの語り残した宮の姿は、大勢の侍女に囲まれ、白い着物を着て紫の帯を締め、おすべらかしを結っていた姿であった。また脚気のためか顔がひどく浮腫んでいたという。(参考文献『和宮』遠藤幸威 成美堂出版)
- ^ “環翠楼の歴史”. 元湯環翠楼. 2020年3月14日閲覧。
- ^ 『官報』第50号「叙任」1883年8月28日。p.2
- ^ 加治将一『幕末 戦慄の絆 和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎』祥伝社〈祥伝社文庫〉、2016年4月13日、18-19,22-23頁。ISBN 978-4-3963-1690-7。
- ^ “磯村勇斗、14代将軍・徳川家茂役で初大河!「青天を衝け」深川麻衣・博多華丸らキャスト発表”. シネマトゥデイ (2021年1月26日). 2021年1月26日閲覧。
- ^ “『大奥』Season2幕末編、福士蒼汰が再登板で天璋院/胤篤役 和宮=岸井ゆきの、将軍家茂=志田彩良”. ORICON NEWS. oricon ME (2023年6月19日). 2023年6月19日閲覧。
- 1 和宮親子内親王とは
- 2 和宮親子内親王の概要
- 3 遺体と副葬品
- 4 挿話
- 5 御料
- 6 関連項目
和宮(かずのみや)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:56 UTC 版)
仁孝天皇の娘で、時の天皇・孝明天皇の妹。十四代将軍徳川家茂の妻(正室)。大奥女中の噂話から澤村田之助に興味を持っていたため、松本良順や仁の仲介でお忍びの芝居見物を行った。併せて、仁が脚気対策の食事療法を試みるが、毒殺未遂騒動が起きてしまう。後日、仁と咲に三つ葉葵と菊の紋が入った褒美を下賜した。
※この「和宮(かずのみや)」の解説は、「JIN-仁-」の解説の一部です。
「和宮(かずのみや)」を含む「JIN-仁-」の記事については、「JIN-仁-」の概要を参照ください。
和宮と同じ種類の言葉
- >> 「和宮」を含む用語の索引
- 和宮のページへのリンク