遠田澄庵とは? わかりやすく解説

遠田澄庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 22:11 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

遠田 澄庵(とおだ ちょうあん、文政2年(1819年) - 明治22年(1889年7月29日)は、幕末漢方医。幕府奥医師。名は景山。号は木堂。脚気治療の名手として知られる。

生涯

文政2年(1819年)、下総国佐倉藩士、水飼五八郎の四男として生まれる。幕府奥医師辻元崧庵(為春院)に師事したという。医術をもって美作国津山藩に仕えたが、安政5年(1858年)7月3日、将軍徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医、青木春岱、蘭方医、伊東玄朴戸塚静海とともに幕府奥医師に登用される。澄庵によれば、将軍の容体は既に手遅れであった。同年11月23日、法眼に叙せらる。将軍徳川家茂の上洛中は江戸にあったが、家茂が大坂城で病んだとの報を受け、慶応2年(1866年)7月16日、大膳亮弘玄院多紀安琢(養春院)、高島祐庵浅田宗伯らとともに大坂へ急派された。明治11年(1878年)、脚気病院が設置され漢洋両サイドの医師が治術を競った際、今村亮とともに漢方側の委員を務めた(いわゆる漢洋脚気相撲)。明治22年(1889年)没。池袋本立寺に葬る。

余技に漢詩をよくした。樋口一葉の父・則義と親しく、一葉の為に中島歌子を紹介したことが知られている。長男・注が牛込逢坂の遠田医院を継ぎ、次男・清は静岡病院長などを勤めた。幕府歩兵屯所付医師で蘭学者の遠田昌庵は実弟である。

脚気の原因として、「米食(白米過多かつその他の栄養素不足)」を挙げている。この時代としては革新的である。脚気の治療時は、漢方薬の服薬と同時に、厳しい食事制限(栄養素管理)を求めており、これもまた先進的であった。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「遠田澄庵」の関連用語

遠田澄庵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



遠田澄庵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの遠田澄庵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS