明治期の主な脚気原因説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
「日本の脚気史」の記事における「明治期の主な脚気原因説」の解説
脚気の原因が分からなかった明治期、脚気の流行に拍車が掛かり(都市部の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。脚気の原因が分からなかった理由として、色々な症状がある上に病気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい食物を摂っている者が冒されて一見粗食を摂っている者が冒されないこと、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの形成に不可欠な「微量栄養素がある」という知識がなかったことが挙げられる。 明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」は、たちまち医界で受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持され続けた。海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人医師のウィリアム・アンダーソン(1873年(明治6年)10月-1880年(明治13年)1月に在日)も伝染病説を信じていた。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤りであり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原因である。
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