明治期に誕生した予備校とは? わかりやすく解説

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明治期に誕生した予備校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:02 UTC 版)

予備校」の記事における「明治期に誕生した予備校」の解説

上級学校進学のための受験準備教育機関として予備学校歴史は、日本の学校制度での進学状況連動している。これは明治5年学制12年教育令制定されているが、以降より旧制中学校旧制専門学校旧制高等教育機関大学への入学目標とする予備教育諸学校が次々と設立されるようになったからである。 例え1年3カ月廃止されたが、後に総理大臣となった高橋是清英語教師として招いて辰野金吾らを高等教育機関辰野場合工部大学校)に送り出した佐賀の耐恒寮(その後共立学校改称。のちの佐賀県唐津東中・高の前身)は、1870年明治3年)年に設置され1871年明治4年)の開校である。また1878年明治11年)に、是清が大学予備門教授時代校長鈴木智雄らが講師就任して大学予備門(のちの第一高等中学校)への進学者のための受験予備校として改革した共立学校(のちの開成中・高前身)も、『坂の上の雲』で、上京した正岡子規秋山真之らが大学予備門受験のため、同校学んでいることがわかる。彼らは1883年明治16年)に入学、翌1884年明治17年東京大学予備門へ入学している。 以下のとおり東京中心に予備校次々と開校されている。 創立不明 - 須田学舎 創立不明もしくは1876年) - 成立学舎 1871年もしくは1878年) - 共立学校(のち開成中学校改組1880年 - 三田予備校(のち三田英学校経て錦城中学校改組1881年 - 独逸学協会学校(のち独逸学協会中学校改組1885年 - 東京英語学校(のち日本中学校改組1888年 - 国民英学会 1889年 - 郁文館(のち郁文館中学校改組1889年 - 正則予備校(のち正則中学校改組1891年 - 高等商業学校予備門(のち私立商工中学校改組1896年 - 正則英語学校(のち正則商業学校改組1897年 - 研数学館 1900年 - 官立学校予備校東京物理学校内) 1902年 - 正則予備学校 1903年 - 開成予備学校開成中学校内) 1903年 - 早稲田高等予備校早稲田中学校内) 1904年 - 京都予備校 1905年 - 錦城予備学校錦城中学校内) 1905年 - 中央高等予備学校中央大学内) 1906年 - 高等予備校専修学校内) 1906年 - 日本高等予備校日本大学内) 1907年 - 明治高等予備校明治大学内) 1908年 - 東洋高等予備校東洋大学内) 1910年 - 東京高等予備校法政大学内) 明治30年から40年西暦1897年から1907年の間までに設立されこの時期開校され予備校は、旧制中学卒業生旧制高等学校旧制専門学校入試失敗したものに対して設置した補習学校知られるこの頃には都市圏での初頭教育小学校への就学率はほぼ9割以上に達しそれに伴い上級学校への入学志願者増加明治30年代後半からは入試難も社会問題化しつつあった。 当時法令上の規定では専門学校である私立高教育機関、後の私立大学広く受験生対象として設置した予備補習校、旧制高等学校専門学校受験準備だけを目標として設けられ補習校、私学だけでなく府県立も含めた旧制中学校の上学校進学用としてそれら中学校内に設置した補習校といった3つのタイプとなる。これらが予備教育機関としての役割満たしていた。 特に最初タイプのは高等予備校という名で、後に1918年大学令以降正式に大学旧制となった教育機関各自校舎内に設けた予備校であった。ただしこれらはそれぞれの大学入学するための予備校でなく、官立旧制高等学校受験目指す予備校である。 大学となった私立高教育機関こうした機関設置したのは、各私立大学帝国大学連結する旧制高等学校匹敵するものとして、今日大学教養部等に相当する予科募集開始したのであるが、一方で教室教員の割からして意外に予科学生確保にも苦悩していたからである。予科就学年数1年半ないし2年である。さらには予科授業内容受験にも対応した普通教育であったがこれに着目すれば予科授業高等学校受験目指す浪人生参加させれば、その教室教員学生数の問題一挙に解決する考えてそれぞれ門徒開放したといえ、現在で言う予備校とは異なるともいえる。現在の感覚では予備校入学試験対策機関であるが、中等教育機関自体がいまだ発達していなかった明治期発足こうした予備校は、受験指導を行うと同時に進学希望者の学力補充する教育機関ともなっていた。そのため修業年限3年近く予科として1年程度課程設けるところもあり、地方出身者地元中学校中退して予備校勉強に励むことが珍しくなかったという。これらは大学側としては授業教室一つ済み、そのうえ予科学生からも予備校生からも授業料徴収できる、つまり大学にとって彼らの入学金1年分の授業料確保できるのである中には解雇された他予備校教員大量に雇い教養部を完全に予備校化したものもあるという。つまり予備校生側も浪人というより聴講生のように大学在籍しているというスタンス確保することが出来ると同時に学生にとっては聴講生予備校生授業料二重払い回避でき、通いながら志望学校への再挑戦目指せることになる。 ほかに旧制中学校高等女学校師範学校入学するための予備校機能として高等小学校、あるいは陸海軍学校への予備校例え海軍醫學校豫備校現在の海城中学校・高等学校)など、ある特定の学校入学するための予備校などがあった。 小学校から中学校へ、中学校から高等学校専門学校など上級学校への進学志願者は、第一次大戦後好景気の頃に著しくかつ急速に増加していったという。 大正中期以降高等教育機関進学する希望者が増大するに伴い旧制高等学校専門学校大幅に拡充され入試難は一時的に緩和されていくにつれ、大正時代後半にかけて私立大学付設予備校減少早稲田大学内に設置していた早稲田高等予備校専修学校にあった高等予備校の2校になっている1918年大正7年)には東京都で「東京高等受験講習会発足1930年昭和5年)には駿台高等予備校改称)、現:駿台予備学校である。

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