明治期から終戦時まで
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江戸(東京) - 仙台の所要時間は、江戸時代には上りが約半月かかった(仙台藩の参勤交代では8-9日間)。1876年(明治9年)の奥羽巡幸 において明治天皇が馬車で各地を回ると、1877年(明治10年)に仙台・国分町と岩沼とを結ぶ馬車会社が開業し、さらに馬車会社の万里軒が1881年(明治14年)に仙台 - 白石、1883年(明治16年)に仙台 - 福島の運行を開始した。このような都市間乗合馬車を乗り継くことで、東京 - 仙台の所要時間は3泊4日に短縮された。 明治時代の中頃に、現在の東北本線の前身に当たる日本鉄道は東京を起点に青森へ向けて鉄道路線を順次建設していった。この中で仙台に駅が置かれることになったが、その位置を巡って問題が起きた。日本鉄道は当初、他の多くの都市と同様に仙台市街地端へ駅を設けようとした。1886年(明治19年)4月に鉄道局長官の井上勝と日本鉄道社長の奈良原繁が宮城県を訪れ、仙台における停車場を宮城郡南目村薬師堂北裏に設けることを、当時の宮城県県令松平正直に伝えた。これはおおよそ現在の東北本線宮城野貨物支線の仙台貨物ターミナル駅付近に当たる。しかし、仙台城下町以来の街の衰退を恐れた地元商人がこれに反対し、費用負担を申し出て日本鉄道に停車場位置の変更を求めた。これが仙台区のほとんどの組(現在の町内会)を巻き込んだ運動になった。一方、士族を中心にした東京在住の仙台出身者は、都市の将来発展のためには原案が望ましいと論じていた。最終的には松平も変更を支持し、地元の費用負担なく東六番丁通の現在位置に決定した。 仙台駅は1887年(明治20年)12月15日に開業した。このとき、東京府の上野駅から宮城県の塩竈駅まで路線が通じ、上野駅と仙台駅は12時間20分で結ばれた。初代の駅舎は木造平屋建ての小さな建物で線路の西側に位置し、幅35メートル、奥行き8メートル、面積236平方メートルであった。また、駅前広場には馬車を回すロータリーがあった。仙台駅の開業日には祝賀列車が運転された。この列車は井上勝や内務大臣山縣有朋、大蔵大臣松方正義らを乗せて、当日の朝に上野駅を出発した。仙台駅への到着予定時刻は19時30分だったが、福島県から宮城県南部にかけての天候が大雪だったために、結局この祝賀列車は22時25分に仙台駅へ入った。このため、駅に降り立った山縣の機嫌は良くなかったと伝わっている。また、鉄道開通の影響で、鉄道と並行する都市間乗合馬車は急速に衰退して廃業し、仙台 - 塩竈間に並行していた馬車軌道の木道社(宮城木道)も廃業に追い込まれた。 1894年(明治27年)、駅舎は改築され、木造ペンキ塗、中央部は2階建て両翼は平屋、面積8,407平方メートルという、当時としては大きく立派なものとなった。この駅舎は増築や改築が重ねて行われ、1945年(昭和20年)に仙台空襲で焼失するまで使用された。 1906年(明治39年)に日本鉄道は国有化され、国有鉄道の東北本線となった。1926年に上野 - 仙台間の所要時間は8時間弱となり、乗降客数は1928年(昭和3年)に1日平均9,649人を数えた。この頃の仙台駅は東北地方で最多の旅客をさばいたが、貨物では青森駅や塩竈駅(旧駅)などに引き離され、6位に留まった。1909年(明治42年)の汽車貨物では、米529トン、雑穀160トン、麦粉328トン、食塩383トン、酒406トン、鮮魚458トン、鉄類369トン、陶磁器298トン、硝子器150トンなどを送り出した。 1925年(大正14年)に、後に仙石線となる宮城電気鉄道が仙台駅から西塩釜駅まで開業した。これは仙台では初となる電化された鉄道だった。また、1926年(大正15年)11月25日に仙台市電が仙台駅前停留場 - 荒町日赤病院前停留場において開業した。仙台駅前停留場は仙台駅前広場に隣接する駅前通りに設けられた。1929年(昭和4年)には、現在の仙山線の一部に当たる仙台駅から愛子駅までの区間が仙山東線として開業した。
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