明治期から昭和期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 10:19 UTC 版)
明治期に入ると、営業の自由が保障されたことから鳴海や名古屋や大高などの周辺地域や、愛知県以外でも全国各地で絞り染めが生産されるようにもなり、東海道が交通の中心から外れたことも影響して、有松の絞りは衰退期を迎える。しかし、明治の中頃以降は販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加した。明治維新によってかつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許 の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることになる。1894年(明治27年)の有松町の職業別戸数統計によれば、絞りを生業とする家は310戸あり、農業100戸、その他50戸を大きく上回りおよそ7割が絞り業に従事した。 この時代のキーパーソンのひとりに、鈴木金蔵(1837年 - 1901年)がいる。「嵐絞り」や「雪花絞り」など、棒や板や機械を用い、生産性が高く斬新な絞り模様の数々を考案し、「中興の祖」とよばれた。 明治期には、古くからある「蜘蛛絞り」の糸を機械式にかける手回しの道具や、それを動力化した「機械蜘蛛絞り」も考案された。一部機械化によって蜘蛛絞りが大量に生産された。また、1916年(大正5年)には「縦引き鹿の子絞り」の、1933年(昭和8年)には「横引き鹿の子絞り」の腕金が発明され、指先でくくるよりも早く習熟し、安定した製品が生み出せるようになっていった。 1905年(明治38年)には、絞りの改良と販路拡充などを目的とした「有松絞商工業組合」が結成された。1907年(明治40年)には、この有松絞商工業組合と名古屋の国産絞同業組合が母体となり、「愛知県絞同業組合連合会」の結成につながる。1916年(大正5年)の有松の絞り生産量は105万反であったが、1919年(大正8年)には120万反に達した。絞り製品の輸送は、名古屋までは馬車や人力車頼みであったものが、1917年(大正6年)に名古屋鉄道(名鉄)のもととなる有松線が熱田から笠寺、鳴海を通り有松まで開通したことによる影響もあったとみられる。この時期の有松・鳴海絞りは絹織物の絞りを多く取り扱い、着物のほかに長襦袢や鼻緒、帯揚げ、風呂敷など製品も多様化した。 戦前には年間100から120万反を生産して安定していた有松鳴海絞りも、第二次大戦中には戦時統制が強化されて原料が入手できなくなり、多くの業者が転廃業を余儀なくされ、衰退する。戦後に統制が解除されると、1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)にかけての1年間、アフリカのコンゴへ絞の輸出が行われ、戦後は為替レートが540円~700円で絞輸出が復興のきざしの礎になったが、1949年(昭和24年)に1ドルが360円の単一為替レートに設定されると採算が取れなくなり輸出が止まった。しかし、この際の加工賃総計は1億3000万円に至り、この利益はその後有松での絞りの生産が活性化する契機となった。 1952年(昭和27年)に有松の業者で「有松絞商工協同組合」が結成され、1960年(昭和35年)以降、高度経済成長によって社会にゆとりが生まれると伝統的な工芸品が見直されるようになり、有松・鳴海絞りの生産量も増加した。しかし、昭和の中頃を過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者難などから生産量は減少した為、問屋業から小売業への転換や廃業が相次いだ。問屋業から小売業への転換は非常に困難を極め、20世紀末にはかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じた。 20世紀には、人件費の高騰と人手不足により生産力が著しく低下したことから、絞り染め工程の中核である「くくり方」を人件費の安い諸外国に求める動きもあり、当初は韓国へ、1980年代には中国への生産委託を開始した。なかでも中国雲南省ペー族への業務委託は、伝統的に絞り染め生産を行う文化をもち類似する技法や技術を有する地域への生産委託であったため、よくある生産コスト重視の海外委託とは一線を画した。雲南省には有松から職人が直接指導に赴き、有松絞り特有の括り技法を伝授してくくり手の確保に努めたほか、綿等の生地の調達から縫製までの全工程を現地工場に委託するため、数度の現地視察を行った。雲南省での生産は1984年(昭和59年)から本格的に開始され、浴衣や着物への依存からの脱却をねらい、新たな用途や製品の生産委託を目指した。その結果、土産物や生活雑貨の廉価な絞り染め製品が製造され、現地に伝承されていた絞り染めと融合した意匠を持つ新たな製品として日本に戻ることとなった。 中国では、雲南省に先立ち沿岸部の江蘇省、広東省、上海市でも、絞り染めの委託が行われた。1960代後半に京都の絞り職人が中心となって農村部の女性にくくり技法を指導していた地域で、文化大革命により一時途絶えるも1974年(昭和49年)頃から再び京都の絞り商が部分的に中国生産委託を行っていたところに、1982年(昭和57年)から有松の業者も参入したものであるが、既存の絞り技術を持たない地域では技法が限られ、鹿の子絞りを中心とした従来の着物生地の生産が委託された。 1975年(昭和50年)9月に愛知県内で初めて国の伝統工芸品に指定された他、1992年(平成4年)には名古屋市で第1回国際絞り会議の開催され、「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など、有松・鳴海絞り振興のための取り組みが行われている。20世紀末には絞りの「くくり」で生じる皺を伸ばさず、その凹凸を形状記憶によって活かす「新しい絞り」も注目されるようになり、三宅一生やコシノヒロコら著名なデザイナーがこの布地を用いた作品をパリコレ等で発表した。中部電力技術開発本部が開発・商品化した「電磁誘導加熱式オートクレープ」は、それまで困難とされてきた天然繊維の形態安定も可能とし、有松の絞り業者に多数導入されている。
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