奥医師
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奥医師(おくいし)とは、江戸幕府の医官。若年寄の支配に属し、奥に住んでいる将軍とその家族の診療をした。近習医師・御近習医師・御側医師とも呼ばれた。ほとんどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった(目見医師)。
概要
200俵高で、役料200俵を給された。西の丸付の奥医師もいた[1]。医業に優れた人が奥医師に選挙され、法印に叙したという[2]。内科は多紀氏、外科は桂川氏が世襲。
この他にも奥詰医師がいた[1]。
奥医師の仕事
奥医師は1日おきに登城し[3]、江戸城中奥の御座の間近くの「御医師の間」に、不寝番で詰める。将軍が朝食を済ませ、小姓に髪の手入れをさせている際に、将軍の左右から2人ずつ6人が計3回、脈を測った。その後、6人の医師は別室でそれぞれの診立てを教え合い、異常があるようなら腹診も行った。
ほかにも、御台所や側室たちも昼食前に6、7回、定期健康診断を行い、二の丸や西の丸にいる将軍の子息たちの診察もした。
病人が出ると、奥医師は全員集められ、それぞれの診立てを告げて、治療法を決定する。治療方針が決まったら、主治医を決めて、昼夜の別なく診療を施す。この際に「典薬頭」の官職を帯びた奥医師の統括者は、自らは治療の手を下さず、ほかの医師たちにさまざまな指示を出すことになる。
奥医師が登場する作品
脚注
参考文献
- 新人物往来社編 編『大江戸役人役職読本 : 時代小説がもっと面白くなる!』新人物往来社、2009年(原著1994年)。ISBN 978-4-404-03717-6。
- 川口謙二ほか『江戸時代役職事典』東京美術〈東京美術選書〉、1981年。 ISBN 4-8087-0018-2。
関連項目
外部リンク
奥医師
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文政元年(1818年)10月26日、大河内重則の婿養子として大河内家を継ぐことが決まり、藤塚町佐治与九郎借家に移った。12月12日評定所の認可で小普請医師となり、4月15日藩主徳川斉朝に御目見し、9月16日大河内存真を襲名した。 文政4年(1821年)8月1日、師浅井貞庵が邸内に設置した静観堂講舎(後の医学館)において書生取締方を命じられた。文政12年(1829年)11月番医師に進み、天保元年(1830年)2月21日御薬園御用手伝を兼ねた。7月12日奥医師打込として前藩主斉朝の治療を担当し、天保2年(1831年)1月20日免じられた。天保7年(1836年)7月10日医学館世話役を兼務した。 天保10年(1839年)3月23日江戸詰中の藩主徳川斉温が急変したため、斉朝の命で江戸に急行するも間に合わず、4月3日帰国した。8月14日奥医師打込として斉温室俊恭院を担当した。天保11年(1840年)10月2日俊恭院死去に伴い、10月15日町在医師医業吟味方懸りに転じた。天保14年(1843年)6月医学館世話役を解かれ、閏9月29日奥詰医師として帰国した現藩主徳川斉荘を担当し、天保15年(1844年)11月8日には町在医師医業吟味方懸りも解かれた。 弘化2年(1845年)7月斉荘が死去すると、幼年の新藩主徳川慶臧のため、弘化3年(1846年)2月26日小児科を本業とし、閏5月22日御薬園御用手伝を辞職した。 嘉永2年(1849年)8月15日奥医師として徳川斉朝匙役を勤めたが、嘉永3年(1850年)1月28日流注を発症し、3月30日死去した。12月27日奥医師となり、嘉永4年(1851年)1月4日江戸に上り、徳川慶恕の帰国に同伴して3月22日帰着した。 嘉永5年(1852年)3月26日慶恕側室多満が懐妊し、5月10日誕生御用を命じられたが、病気のためこれを断った。8月15日全快し、誕生した栄姫の療養に携わったが、嘉永6年(1853年)6月1日夭折した。その後、多満の寛之助出産、側室由起の尭之助出産にも関わったが、いずれも夭折している。
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