奥北浦農民一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 08:25 UTC 版)
角館小館御役屋の支配する奥北浦の村々は43か村であった。これは現在の仙北市(旧田沢湖町、旧西木村、旧角館町)および大仙市のうち旧中仙町の桜田村を含む地区に相当する。奥北浦一揆を主導した村は西長野村、川原村、山谷川崎村であった。前北浦農民一揆に先立つ1833年10月に山谷川崎村において、傘連判状が作成されている。村の全戸数と同じ79の名前を押印、申し合わせ事項が書かれている。その主な内容は「町方からの借金の返済や日用品のつけは、支払い方法を交渉するので、全員がそれに従うこと。また、借金の抵当として出した物件は何人たりとも手をつけない」というものであった。 前北浦農民一揆が収まってから20日ほどたった2月18日、「不穏な動き」が西明寺村で見られた。19日の朝から廻米蔵宿・九右衛門宅の近くに農民が集まってきた。九右衛門は役人に連絡し、役人が九右衛門宅に駆けつけると、農民達は手に手にナタや鎌、竹槍を持ち「銅山廻米阻止」をスローガンに九右衛門宅を取り囲んでいた。農民達は奥北浦の家々から一人ずつ参加するように呼びかけられたもので、もし不参加であれば家を焼き家族に乱暴するとまで言われていた。集まった農民は千人程度で、役人が「村から代表者を出し、その者と御役屋で交渉する」と提案しても農民達は前北浦一揆の苦い経験をふまえてか、受け付けようとしなかった。 農民達は昼になって昼飯を要求したので、役人は廻米の中から14俵ほど炊き出した。また、農民達は近村の肝煎の家にも押しかけて食事を要求した。役人達は騒ぎ立てる農民に目的を聞くと、郡方支配をなくして佐竹北家の支配にして欲しいということであった。役人は農民に「それならば御役屋に申し出れば良い。問題が解決するまでは、阿仁廻米は停止する」と説得した。昼下がり、農民達は役人と一緒に角館に向かった。 農民達は人数を増やしてときの声を上げ、貝を吹き上げながら移動した。梅沢村や卒田村では肝煎宅に押しかけ食事をする程度の農民達だったが、20日正午過ぎ、雲然村(旧角館町)の親郷肝煎・久吉宅で、乱暴狼藉を働いた。役人や足軽は必死になって鎮めようとするが、「郡方にだまされるな。小館御役屋を毀せ」と言って聞かず、御役屋の米30俵を炊き出しても農民達の狼藉は収まらなかった。 佐竹北家当主である佐竹義術が西野河原まで出馬して、農民達に「阿仁銅山廻米は停止する」「願いの筋を文書で示せば、久保田に行って申し伝える」と言って、解散するように諭した。農民の一部(西長野村、川原村、山谷川崎村の者)は約束の印を貰いたいと頑張った者もいたが、暗くなってようやく農民達は解散した。 後日、佐竹北家は銅山廻米を続ける代わりに、久保田に送る米の中から300石をお救い米と払米にした。また、久保田に送る書状は基本政策に関わることであったので佐竹北家はこれを握りつぶした。 前北浦一揆では農民の処罰者は出なかったが、奥北浦一揆では農民の処罰者が出た。
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