前北浦農民一揆
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前北浦とは現在の大仙市のうち、旧中仙町と旧太田町に当たる地区である。44の村があり、御役屋は長野村六日町(旧中仙町)にあった。1834年1月26日に「家口米仕法」と「阿仁銅山廻米」の中止、その他を要求して二千数百人もの農民が、長野御役屋を包囲した。阿仁銅山廻米とは、阿仁銅山で働くおよそ4,000人の食料として、仙北地区から大覚野峠を越えて輸送する米である。年によって異なるが、角館からは1,000石から5,000石の米が輸送されていた。 「家口米仕法」については、1833年12月、郡方吟味役が前北浦の肝煎を集め「来年6月に米が上方から入るので、それまでは藩内でやりくりをしたい。3月までは一人あたり一日3合、4月は7合、5月は8合と計算して、その残りは藩が全て借り上げたい。または、一俵3貫300文で買いたい」と申し渡した。その後、新任の吟味役が到着し、各家ごとに徹底して食料の調査を行った上で「一人あたり一日2.5合の見積もりで3月31日までの分を保有して、残りの米は全て借り上げる。3月31日までの分も、親郷共の倉まで運んで備えておき、日々の分を通帳をもって受け取ること」とした。 これに反発した農民は、1月26日に二千数百人で長野御役屋を包囲し、かがり火を焚きながら悪口雑言、夜更けまで騒ぎ立てた。長野御役屋では相手にならないと、農民達は翌日久保田城を目指して歩き始めた。郡奉行の金易右衛門は驚き、部下を連れて神宮寺に駆けつけ、舟渡の網を切り落とし、農民達を説得した。農民達は説得を受け翌28日に鑓見内村(旧中仙町)鎮守の八幡宮に集まった。その日の午後に、農民達と金易右衛門との交渉が始まった。 交渉に先立ち、金易右衛門は農民から代表者を出すように要求し農民の分断を図った。交渉時には農民達は恐れ入るばかりで、結果的に農民達の要求は通ることがなかった。
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