御典医
御典医
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御典医(ごてんい)とは、典薬寮に所属する医師のことであり、単に典医ともいう。転じて、江戸時代には将軍家や大名に仕えた医師もこの名称で呼ぶようになった。この場合、御殿医と表記することもある。
典薬寮医師という意味での御典医は、名誉職であった典薬頭を除き、実際に天皇の治療に携わる医師のことを指した。近世では優秀な民間医が典医に登用されると同時に官位を与えられ、地下人の身分となるケースがほとんどを占めた。
一方、武家の御典医は、将軍や藩主と身近に接する立場で、武士に準ずる身分であった。なお、幕府の御典医は奥医師、藩のは藩医と呼ばれていた。
関連項目
御典医
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:19 UTC 版)
天保9年(1838年)には長女が、天保10年(1839年)には長男・忠圀(ただくに)が、天保11年(1840年)には次女が、天保12年(1841年)には三女が、弘化元年(1844年)には次男・忠明(ただあき)が、弘化4年(1847年)には三男・忠浄(ただきよ)が、嘉永3年(1850年)には四男・純が生まれているが、長男・忠圀は天保13年に没し、四男・純は嘉永4年(1851年)に没した。 天保元年(1830年)には兄の真武が死去したため、次男の忠順が村上家の家督を継いだ。この頃には父親を手伝って堤村で医業を行っていたとされる。嘉永2年(1849年)には本居内遠に弟子入りして国学を学んだ。嘉永6年(1853年)には刈谷藩御典医の父・忠幹が死去したため、刈谷藩主土井利善の下で父の跡を継いで三人扶持・金八両・小納戸格の御典医となった。しかし忠順は自らの未熟さを自覚しており、堤村で医業を行うと同時に、安政2年(1855年)には西加茂郡福田村の酒井玄悦の下で眼科の修行を行っている。 御典医を務める傍らで、藩主である利善の師として短歌の添削を行い、安政4年(1857年)からは論語・老子・荘子・源氏物語などを藩主に進講した。忠順には150人以上の門人がいたとされる。参勤交代の折には藩主に従って江戸に赴くこともあり、藩内の政治情勢について意見を求められることもあった。
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