本居内遠とは? わかりやすく解説

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もとおり‐うちとお〔もとをりうちとほ〕【本居内遠】

読み方:もとおりうちとお

[1792〜1855]江戸後期国学者名古屋の人。号、園(はりぞの)。豊穎(とよかい)の父。本居大平養子となり、紀州侯に仕えた。著「落葉の錦」など。


本居内遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 14:52 UTC 版)

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本居 内遠(もとおり うちとお、寛政4年2月23日1792年3月15日) - 安政2年10月4日1855年11月13日))は、尾張国名古屋俳人国学者。本姓は浜田、実名は孝国、高国、秋津。通称は鎌次郎、久次郎、安次郎、弥四郎。号に木綿垣、榛園。狂歌の号は時曳速躬[1][2]。子に本居豊穎(国学者)、荒巻利蔭(歌人・音楽家)、徳田正稔(陸軍大佐)がいる。

人物

尾張国名古屋城本町の書店万巻堂菱屋久八郎の子として生まれる[3]。幼少より俳諧狂歌に親しむ[3]。15歳のときに本居宣長の著作に触れ、18歳で植松有信の『源氏物語』講読を聞き、24歳で鈴木朖の『古事記』講義を聞く。27歳で市岡猛彦に入門、その翌年に江戸に遊学して清水浜臣石川雅望と親交を持つ[1]文政3年(1820年)に宣長の養子・本居大平の門を叩いた[3]天保2年(1831年)には大平の養子となり、大平の娘である藤子を妻に迎えた[3]紀州藩徳川斉順に仕え、藩命により『紀伊続風土記』『新撰紀伊国名所和歌集』を編纂した[1]嘉永4年(1851年)より藩の神道学問所で講義を行い、安政元年(1854年)に江戸藩校古学館の教授となったが、翌安政2年(1855年)に赤坂の藩邸で死去した[1][2]

脚注

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参考文献

  • 『角川日本姓氏歴史人名大辞典23 愛知県』愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会、角川書店、1991年10月30日(日本語)。ISBN 4-04-002230-0



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