清水浜臣とは? わかりやすく解説

しみず‐はまおみ〔しみづ‐〕【清水浜臣】

読み方:しみずはまおみ

[1776〜1824]江戸後期歌人国学者江戸の人。号、泊洦舎(さざなみのや)。村田春海国学学び古典考証注釈にすぐれ、王朝情趣のある歌文を残した。著「泊洦舎文藻」「泊洦舎集」など。


清水浜臣

読み方しみず はまおみ

江戸後期国学者江戸生。医者の子通称は玄長、泊泊舎・月斎と号する幼時より歌文を好み国学和歌学んだ本居春庭千種有功らと親交した。門人岡本保孝前田夏蔭らがいる。文政7年(1824)歿、48才。

清水浜臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/09 08:36 UTC 版)

清水 浜臣
清水浜臣(谷文晁・筆)
人物情報
別名 通称:玄長
号:泊洦舎、月齋
生誕 安永5年(1776年)??月??日(1776年????日)
日本武蔵国江戸飯田町
死没 文政7年閏8月17日1824年10月9日
国籍 日本
両親 父:清水道円
子供 清水光房
学問
時代 江戸時代後期
活動地域 江戸
学派 江戸派
研究分野 国学
主要な作品 『古言梯再考増補標註』など
影響を受けた人物 村田春海
テンプレートを表示

清水 浜臣(しみず はまおみ、安永5年(1776年) - 文政7年閏8月17日1824年10月9日))は、江戸時代後期の医師、歌人国学者。通称は玄長。号は泊洦舎月齋など。姓は藤原。子に清水光房。

略歴

武蔵国江戸飯田町の医者清水道円の子として生まれる。早くに父を亡くす。その後、17歳にして江戸の和歌の大家である村田春海の門下生となり、歌を学ぶ。上野に居を構えて家業を継ぎ医者となるも、古学の研究も続けた。多くの著作を手がけ、国学者として著名となる。

多くの門人を持ち、幅広く交流を持ったため、人脈も広かった。後妻は三井親和の娘。

49歳で没した。墓所は武蔵国入間郡入間川村之内、田中村(現在の埼玉県狭山市狭山[1]。父道円は江戸に出る前この地で医師をしていた)の安穏寺[注釈 1]

その他

  • 同じく春海の門下生であった本庄宿森田豊香とも交流があり、豊香の子である豊文は浜臣の弟子である。浜臣は本庄の門人を指導しに、たびたび森田家に泊まりに来ていた。
  • 小山田与清とは犬猿の仲で、国学上の問題でも悉く意見が対立するほどであったという[2]。これは春海の死後、遺稿の出版の主導権をめぐって確執が生じたことに端を発する[3]。両者の不仲は当時から有名であったらしく、大田南畝の『半日閑話』にも取り上げられている[3]

脚注

注釈

  1. ^ 明治に廃寺。平成に近傍の天岑寺境内に再興した。

出典

  1. ^ 清水濱臣の墓狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕昭和48年(1973年)3月1日指定 狭山市
  2. ^ 揖斐高 (2009).
  3. ^ a b 田中康二 (2010), p. 135(初出:田中康二 2007

参考文献

図書
雑誌
  • 田中康二「江戸派の出版」『神戸大学文学部紀要』第34号、2007年3月、45-77頁。 

外部リンク




清水浜臣と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「清水浜臣」の関連用語

清水浜臣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清水浜臣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの清水浜臣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS