御台所
御台所
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御台所(みだいどころ)は、大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。御台盤所(みだいばんどころ)も同じ。奥方様の意。
台盤
御台盤所の「台盤」とは、長方形の縁がついた盤に四脚を添えて台状にした一人用の食卓で、今日でいう膳のことである。かつてこうした台盤が日常的に使われていたのは上流貴族の邸宅や宮中に限られていた。
「台盤所」とは文字通りとはその台盤を置いておく所のことで、調理や配膳を行う一室のことを指した。これが今日でいう台所の語源である。後に宮中ではさらにこれが転じて、清涼殿内の女房詰所のことを台盤所と呼ぶようにもなっている。
概要
平安時代の中頃までは、三位以上の公卿の正室は皆「北政所」と呼ばれていた。しかし時代が下るとこれが格式化して、「北政所」は宣旨をもって贈られる称号となり、しかもその対象は摂政または関白の正室のみに限られるようになった。
すると三位以上の公卿でも大臣や大将の正室には、必然的に別の呼び名が使われるようになる。これが御台盤所、またこれを略した台盤所(だいばん どころ)や御台(みだい)で、院政時代以降の文献にこれが散見する。
例えば、藤原師実の正室・源麗子は、師実が大臣だった頃(内大臣→左近衛大将→右大臣→左大臣)には「大盤所」(御台盤所)と呼ばれていたが、承保2年(1075年) 師実に関白宣下があって以降は「北の政所」(北政所)と呼ばれており、御台盤所と北政所の用法に明確な違いが見て取れる。
鎌倉時代に成立した『平家物語』の巻一には入道相国平清盛の子らについて語られる章があるが、ここでも娘たちを紹介するくだりでは、その呼び名に明確な差異を見ることが出来る。
一人は……花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給ひて……
一人は后に立たせ給ふ……
一人は六條の攝政殿の北政所にならせ給ふ……
一人は普賢寺殿の北政所にならせ給ふ。
一人は冷泉大納言隆房卿の北方。
一人は七條修理大夫信隆卿に相具し給へり。 — 『平家物語』巻一、五「吾身榮花」
とある。この「花山院の左大臣殿の御台盤所」とは、左大臣藤原兼雅の正室となった次女のことを指す。次の「后」というのは高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んで国母となった三女の徳子、「六条の摂政殿の北政所」というのは摂政関白藤原基実の正室となった四女の盛子、「普賢寺殿の北政所」というのは摂政関白近衛基通の正室となった六女の完子のことである。また「冷泉大納言隆房卿の北方」というのは権大納言藤原隆房の正室となった五女のことだが、隆房は後白河院の寵臣としては名を馳せたものの、大臣でも大将でも摂政でも関白でもなかったので、その正室も「北方」という表現になっている。そして「七条修理大夫信隆卿に相具し給へり」というのは修理大夫藤原信隆の妻となった長女のことで、信隆には正室が別にいたためこの長女は北方ではなく、したがって「相具す」(嫁ぐ)という表現が使われている。
将軍正室
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻である北条政子が「御台所」と称され、以降歴代の将軍正室の呼称となる。後の室町幕府・江戸幕府の将軍夫人も御台所と称された。
参考文献
関連項目
御台所
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養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親(時政の舅で義時の母方の祖父)の恩赦を命じた。祐親はこの赦免を恥として自害してしまう。『源平闘諍録』『曽我物語』などによると、頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の三女(八重姫)と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と三女の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあったという。ただしこれは同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料では確認できない。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。 政子の妊娠中に頼朝は亀の前という妾を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の兄の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊す後妻打ち(うわなりうち)を行い、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国へ流罪にさせた。 政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は他の女性とも通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くの妾を持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子はそんな夫の行動を容認できなかった。 その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘(祥寿姫)を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出るのは、この4ヶ月後である。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。 寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後であったが、幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。 義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。しかし義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北、さらに後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。 範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。 範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。 平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。 政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。 同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。 奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。 建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は大進局と貞暁のもとへ密かに会いに訪れている。 建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話であるが、これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。その後、頼朝が鎌倉に帰還すると、範頼が頼朝の不興を買い伊豆に流される事件が起きている。『保暦間記』によると、鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めたため、鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられたためとしている。 大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。 建久6年(1195年)、政子は東大寺再建供養に出席する頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局や源通親と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に大姫は20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。 次いで頼朝は次女の三幡を入内させようと図り、三幡は女御の宣旨を受けるが、頼朝は建久10年(1199年)1月に急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。
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