富士の巻狩りとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 生活 > 暮らし > 狩猟 > 富士の巻狩りの意味・解説 

ふじ‐の‐まきがり【富士の巻狩(り)】

読み方:ふじのまきがり

鎌倉時代富士山麓行われた狩り建久4年(1193)源頼朝催した狩りは、曽我兄弟の仇討ちで有名。


富士の巻狩り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 21:30 UTC 版)

富士の巻狩り(ふじのまきがり)とは、建久4年(1193年)5月から6月にかけて、源頼朝が多くの御家人を集め駿河国富士山麓藍沢(現在の静岡県御殿場市裾野市一帯)・富士野(静岡県富士宮市)にて行った壮大な巻狩のことである。


注釈

  1. ^ 『吾妻鏡』には御家人の列挙がある。また『曽我物語』の場合、仮名本では確認されるが真名本では確認されない[7]
  2. ^ 「犬房丸」。『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月29日条
  3. ^ 『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月2日条
  4. ^ 三重県四日市市諏訪神社祭礼である四日市祭に奉納される風流のひとつ。安永年間(1772年 - 1781年)の記録にも見え、江戸時代の画家・司馬江漢の日記の天明8年(1788年)に「富士の巻き狩りの邌物を見物す」と記されている。暴れまわる全長4mを超えるハリボテの大猪を、煌びやかな衣装をつけた子ども武者(馬上の源頼朝、北条時政、曽我五郎ら)が射止める[36]文化勲章受章作家丹羽文雄の作品「菩提樹」に、この邌物の様子がいきいきと描かれている。
  5. ^ 文化13年(1816年)の序がある、武陽隠士という人物が記した「世事見聞録」という随筆の「五ノ巻 諸町人の事」という一節に、富士の巻狩りが登場する。当時の裕福な町人の子どもは、武士の子に比べ贅沢に育てられているとした上で、次の文章が記されている。「右の子供等が、山王・神田その外の祭礼に出づる時は、古今目を驚かしたる風情なり。先づその男女(子供)を神功皇后・八幡太郎・頼光・義経朝臣などの大将に仕立て、あるいは富士の巻狩りなどの催し、唐織・金襴・縮緬・緞子・紗綾など、十重も二十重も著し、それに付属する族も幾人となく美少人を揃え置き、みな羅紗・猩々緋・天鷲絨・ゴロフクリンなど、供の奴までも装い、父母をはじめ大勢の下人ども付き添いて、それぞれ美服を装い、腰の物・下げ物・髪の物など善美を尽くし、とにもかくにもこの上のなき程に取り飾り、また女芸者・踊子など売女をそろえて雇い上げ、三味線・鼓弓・笛・太鼓そのほか音曲の囃子方を雇い、髪の物を揃え、綾羅を揃えて飾りなすなり。右の入用金五百両の上、千両などにも至るというなり。武士の二千石、四千石の一ヶ年に入る所務を、一人の子供、一日の祭礼に費やすなり。」
  6. ^ 『吾妻鏡』には「将軍家駿河国富士の狩倉に渡御す。かの山麓にまた大谷あり。これを人穴と号す」とある。またこの人穴を新田忠常が探索する記事が続く。

出典

  1. ^ 木村(2011) pp.155-156
  2. ^ 木村(2011) p.155
  3. ^ 坂井(2014) p.120
  4. ^ 坂井(2000) p.143
  5. ^ 木村茂光「頼朝政権と甲斐源氏」19頁、『武田氏研究』第58号、2018年
  6. ^ 海老沼真治、「甲斐源氏の軍事行動と交通路」、『甲斐源氏 : 武士団のネットワークと由緒』、2015年
  7. ^ 東洋文庫(1988) p.322
  8. ^ 坂井(2014) p.55
  9. ^ 坂井(2014) p.156
  10. ^ 『裾野市史』第2巻資料編古代・中世、98頁、1995年
  11. ^ 大妻女子大学国文学会(編)、『曽我物語 下、376頁、2015年
  12. ^ 鈴木進、『南葵文庫本曽我物語と研究 下』44頁、未刊国文資料刊行会、1975年
  13. ^ 清水泰、『曽我物語(万法寺本)下』31頁、古典文庫、1960年
  14. ^ 村上学徳江元正福田晃編、『彰考館蔵曾我物語 中』(伝承文学資料集第6輯)83頁、三弥井書店、1973年
  15. ^ 江馬務佐野泰彦土井忠生、浜口乃二雄:訳『日本教会史』岩波書店、1967年、227頁。ISBN 4000085093 
  16. ^ 今野信雄『鎌倉武士物語』河出書房新社、1991年、72頁。ISBN 9784309221984 
  17. ^ 日本博学倶楽部『源平合戦・あの人の「その後」』PHP研究所、2004年、17頁。ISBN 9784569662633 
  18. ^ 遠藤秀男「富士の巻狩り」、『あしなか』88輯、1964年
  19. ^ 陣馬の滝(富士宮市HP)
  20. ^ 音止の滝(富士宮市HP)
  21. ^ 曽我兄弟の隠れ岩(富士宮市HP)
  22. ^ 石井進「曾我物語の世界」66-67頁『中世武士団』
  23. ^ 坂井(2014) pp.121-122
  24. ^ 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書、2020年)
  25. ^ 小林直樹、「『吾妻鏡』における頼家狩猟伝承-北条泰時との対比の視点から-」『国語国文』第80巻第1号(通号917号) 、2011年
  26. ^ 佐伯智広、「『吾妻鏡』空白の三年間」『立命館文学』第677号、2022年
  27. ^ 坂井(2014) p.56・63・87
  28. ^ 東洋文庫(1988) p.323
  29. ^ 坂井(2014) p.89・122
  30. ^ 坂井(2014) p.86
  31. ^ 『真名本曽我物語』巻八(妙本寺本)
  32. ^ 會田実「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」98-101頁、『公家と武家 Ⅳ 官僚制と封建制の比較文明史的考察』、2008
  33. ^ 『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月28日条、29日条など
  34. ^ 井戸(2017) pp.202-204
  35. ^ 井戸(2017) pp.255-257
  36. ^ 四日市市役所小田原市デジタルアーカイブ
  37. ^ 裾野市、「源頼朝の挙兵と富士の巻狩」112-113頁、『裾野市史』第8巻通史編I、2000年


「富士の巻狩り」の続きの解説一覧

富士の巻狩り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:10 UTC 版)

北条時政」の記事における「富士の巻狩り」の解説

「富士の巻狩り」も参照 建久4年1193年3月後白河院崩御から1年過ぎて殺生禁断解けると、頼朝下野国那須野次いで信濃国三原野で御家人召集し大規模な巻狩り催した奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習加えて関東周辺地域対す示威行動狙いもあったと見られる5月から巻狩りの場は富士方面移り駿河守護である時政狩場宿所設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成曾我時致兄弟父の仇である工藤祐経襲撃し討ち取るという事件が勃発する混乱の中で多く武士殺傷され、兄の祐成は仁田忠常討たれ、弟の時致は頼朝宿所突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親時政であることから、時政事件黒幕とする説もあるが真相不明である。 伊豆有力者だった祐経の横死時政有利に働いたようで、建久5年1194年11月1日伊豆国一宮である三島神社神事経営初め沙汰している。なお、この年8月には長年亘って遠江国実効支配していた安田義定反逆疑い処刑されているが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られる伊豆駿河遠江3ヶ国に強固な足場築いた時政は、正治元年1199年)に頼朝死去する十三人の合議制名を連ね幕府有力者として姿を現すことになる。

※この「富士の巻狩り」の解説は、「北条時政」の解説の一部です。
「富士の巻狩り」を含む「北条時政」の記事については、「北条時政」の概要を参照ください。


富士の巻狩り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「富士の巻狩り」の解説

建久4年1193年5月御家人集め駿河国巻狩を行う(富士の巻狩り)。16日、この巻狩において12歳頼家初めて鹿を射止めたこの後狩り中止され、晩になって山神矢口の祭り執り行われた。また、頼朝喜んで政子報告使い送ったが、政子武将嫡子なら当たり前のことであると使者追い返した。これについては、頼家鹿狩りは神によって彼が頼朝後継者みなされたことを人々認めさせる効果持ち、そのために頼朝ことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈なされている。一方で政子発言頼家貶めるための『吾妻鏡』曲筆で、実際にそのような発言はなかったとする説もある。 28日夜に御家人工藤祐経曾我兄弟の仇討ち遭い討たれる『保暦間記』によると、宿場一時混乱へと陥り、頼朝討たれたとの誤報鎌倉に伝わると、範頼は嘆く政子対し「範頼がおります何事も御心配は要りませぬ」と慰めた。この発言頼朝謀反疑い招いたとされる8月2日、範頼から頼朝元に謀反否定する起請文が届くが、頼朝は範頼が「源」の氏名使ったことに激怒した8月10日頼朝寝床潜んでいた範頼の間者捕縛される。これにより範頼は伊豆流された。 建久5年1194年)には甲斐源氏安田義定を誅している。建久6年1195年3月摂津国住吉大社において幕府御家人集めて大規模な流鏑馬を催す。建久8年1197年)には、薩摩国大隅国などで大田文作成させ、地方支配の強化目指している。

※この「富士の巻狩り」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
「富士の巻狩り」を含む「源頼朝」の記事については、「源頼朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「富士の巻狩り」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



富士の巻狩りと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「富士の巻狩り」の関連用語

富士の巻狩りのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



富士の巻狩りのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの富士の巻狩り (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの北条時政 (改訂履歴)、源頼朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS