富士の巻狩り
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富士の巻狩り(ふじのまきがり)とは、建久4年(1193年)5月から6月にかけて、源頼朝が多くの御家人を集め駿河国富士山麓の藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市一帯)・富士野(静岡県富士宮市)にて行った壮大な巻狩のことである。
注釈
- ^ 『吾妻鏡』には御家人の列挙がある。また『曽我物語』の場合、仮名本では確認されるが真名本では確認されない[7]。
- ^ 「犬房丸」。『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月29日条
- ^ 『吾妻鑑』建久4年(1193年)5月2日条
- ^ 三重県四日市市の諏訪神社祭礼である四日市祭に奉納される風流のひとつ。安永年間(1772年 - 1781年)の記録にも見え、江戸時代の画家・司馬江漢の日記の天明8年(1788年)に「富士の巻き狩りの邌物を見物す」と記されている。暴れまわる全長4mを超えるハリボテの大猪を、煌びやかな衣装をつけた子ども武者(馬上の源頼朝、北条時政、曽我五郎ら)が射止める[36]。文化勲章受章作家丹羽文雄の作品「菩提樹」に、この邌物の様子がいきいきと描かれている。
- ^ 文化13年(1816年)の序がある、武陽隠士という人物が記した「世事見聞録」という随筆の「五ノ巻 諸町人の事」という一節に、富士の巻狩りが登場する。当時の裕福な町人の子どもは、武士の子に比べ贅沢に育てられているとした上で、次の文章が記されている。「右の子供等が、山王・神田その外の祭礼に出づる時は、古今目を驚かしたる風情なり。先づその男女(子供)を神功皇后・八幡太郎・頼光・義経朝臣などの大将に仕立て、あるいは富士の巻狩りなどの催し、唐織・金襴・縮緬・緞子・紗綾など、十重も二十重も著し、それに付属する族も幾人となく美少人を揃え置き、みな羅紗・猩々緋・天鷲絨・ゴロフクリンなど、供の奴までも装い、父母をはじめ大勢の下人ども付き添いて、それぞれ美服を装い、腰の物・下げ物・髪の物など善美を尽くし、とにもかくにもこの上のなき程に取り飾り、また女芸者・踊子など売女をそろえて雇い上げ、三味線・鼓弓・笛・太鼓そのほか音曲の囃子方を雇い、髪の物を揃え、綾羅を揃えて飾りなすなり。右の入用金五百両の上、千両などにも至るというなり。武士の二千石、四千石の一ヶ年に入る所務を、一人の子供、一日の祭礼に費やすなり。」
- ^ 『吾妻鏡』には「将軍家駿河国富士の狩倉に渡御す。かの山麓にまた大谷あり。これを人穴と号す」とある。またこの人穴を新田忠常が探索する記事が続く。
出典
- ^ 木村(2011) pp.155-156
- ^ 木村(2011) p.155
- ^ 坂井(2014) p.120
- ^ 坂井(2000) p.143
- ^ 木村茂光「頼朝政権と甲斐源氏」19頁、『武田氏研究』第58号、2018年
- ^ 海老沼真治、「甲斐源氏の軍事行動と交通路」、『甲斐源氏 : 武士団のネットワークと由緒』、2015年
- ^ 東洋文庫(1988) p.322
- ^ 坂井(2014) p.55
- ^ 坂井(2014) p.156
- ^ 『裾野市史』第2巻資料編古代・中世、98頁、1995年
- ^ 大妻女子大学国文学会(編)、『曽我物語 下、376頁、2015年
- ^ 鈴木進、『南葵文庫本曽我物語と研究 下』44頁、未刊国文資料刊行会、1975年
- ^ 清水泰、『曽我物語(万法寺本)下』31頁、古典文庫、1960年
- ^ 村上学・徳江元正・福田晃編、『彰考館蔵曾我物語 中』(伝承文学資料集第6輯)83頁、三弥井書店、1973年
- ^ 江馬務、佐野泰彦、土井忠生、浜口乃二雄:訳『日本教会史』岩波書店、1967年、227頁。ISBN 4000085093。
- ^ 今野信雄『鎌倉武士物語』河出書房新社、1991年、72頁。ISBN 9784309221984。
- ^ 日本博学倶楽部『源平合戦・あの人の「その後」』PHP研究所、2004年、17頁。ISBN 9784569662633。
- ^ 遠藤秀男「富士の巻狩り」、『あしなか』88輯、1964年
- ^ 陣馬の滝(富士宮市HP)
- ^ 音止の滝(富士宮市HP)
- ^ 曽我兄弟の隠れ岩(富士宮市HP)
- ^ 石井進「曾我物語の世界」66-67頁『中世武士団』
- ^ 坂井(2014) pp.121-122
- ^ 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書、2020年)
- ^ 小林直樹、「『吾妻鏡』における頼家狩猟伝承-北条泰時との対比の視点から-」『国語国文』第80巻第1号(通号917号) 、2011年
- ^ 佐伯智広、「『吾妻鏡』空白の三年間」『立命館文学』第677号、2022年
- ^ 坂井(2014) p.56・63・87
- ^ 東洋文庫(1988) p.323
- ^ 坂井(2014) p.89・122
- ^ 坂井(2014) p.86
- ^ 『真名本曽我物語』巻八(妙本寺本)
- ^ 會田実「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」98-101頁、『公家と武家 Ⅳ 官僚制と封建制の比較文明史的考察』、2008
- ^ 『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月28日条、29日条など
- ^ 井戸(2017) pp.202-204
- ^ 井戸(2017) pp.255-257
- ^ 四日市市役所小田原市デジタルアーカイブ
- ^ 裾野市、「源頼朝の挙兵と富士の巻狩」112-113頁、『裾野市史』第8巻通史編I、2000年
- 1 富士の巻狩りとは
- 2 富士の巻狩りの概要
- 3 出来事
- 4 影響
富士の巻狩り
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「富士の巻狩り」も参照 建久4年(1193年)3月、後白河院の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国・那須野、次いで信濃国・三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られる。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もあるが真相は不明である。 伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰している。なお、この年の8月には長年に亘って遠江国を実効支配していた安田義定が反逆の疑いで処刑されているが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られる。伊豆・駿河・遠江3ヶ国に強固な足場を築いた時政は、正治元年(1199年)に頼朝が死去すると十三人の合議制に名を連ね、幕府の有力者として姿を現すことになる。
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富士の巻狩り
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建久4年(1193年)5月、御家人を集め駿河国で巻狩を行う(富士の巻狩り)。16日、この巻狩において12歳の頼家が初めて鹿を射止めた。この後、狩りは中止され、晩になって山神・矢口の祭りが執り行われた。また、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前のことであると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある。 28日の夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。『保暦間記』によると、宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、範頼は嘆く政子に対し「範頼がおります。何事も御心配は要りませぬ」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、範頼から頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、頼朝は範頼が「源」の氏名を使ったことに激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流された。 建久5年(1194年)には甲斐源氏の安田義定を誅している。建久6年(1195年)3月、摂津国の住吉大社において幕府御家人を集めて大規模な流鏑馬を催す。建久8年(1197年)には、薩摩国や大隅国などで大田文を作成させ、地方支配の強化を目指している。
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