源頼家の初鹿狩りと北条政子の反応
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「富士の巻狩り」の記事における「源頼家の初鹿狩りと北条政子の反応」の解説
『吾妻鏡』によると、以下のようにある。5月16日に頼朝の嫡男頼家が初めて鹿を射止めた。このとき頼家を支えた愛甲季隆は頼朝より称賛されている。その日の晩、山神・矢口祭が執り行われた。北条義時が三色の餅を献上し、狩野宗茂は勢子餅を進めた。そして工藤景光・愛甲季隆・曽我祐信が頼朝に召し出される。梶原景季・工藤祐経・海野幸氏が矢口餅の陪膳を行い、頼朝に召し出された三者が矢口餅を山神に供える儀式を行った後に食す。矢口餅の儀式を終えた三者は馬・直垂などを賜り、また頼家に返礼品を献上した。 頼家の初鹿狩りをことのほか喜んだ頼朝は梶原景高を遣わし北条政子に知らせた。一方政子は「武士の嫡嗣であり当たり前で珍しいことでもなく、使を出すことでもない」と感心する様子は無かった。景高は鎌倉から富士野に帰参し、22日にこれを伝えた。 初鹿狩りは将軍後継者たる頼家を周囲の御家人に認めさせる契機であり意義があるものとされるが、政子はその意義を理解できなかったとする諸家による指摘がある。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある。また矢口餅を賜った三人のうち、一口目を食した工藤景光は同28日に発病し、三口目を食した曽我祐信は頼朝によりその所作を残念がられる場面がある。その他初猟りに対する北条政子の言動等、頼家の門出は不吉な影を伴うものであったとするものもある。 この矢口祭・北条政子とのやり取りは、『曽我物語』には無い『吾妻鏡』独自の記事である。
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