十三人の合議制
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十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後、建久10年(1199年)4月に発足した鎌倉幕府の集団指導体制を指す歴史学上の用語である。正治2年(1200年)には解体した。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。
注釈
- ^ 後藤基清の讃岐守護職改替、伊勢神宮領六箇所地頭職の停止など。
- ^ 『吾妻鏡』正治元年四月十二日条
十二日癸酉。諸訴論事。羽林直令决断給之條。可令停止之。於向後大少事。北條殿。同四郎主。并兵庫頭廣元朝臣。大夫属入道善信。掃部頭親能在京。三浦介義澄。八田右衛門尉知家。和田左衛門尉義盛。比企右衛門尉能員。藤九郎入道蓮西。足立左衛門尉遠元。梶原平三景時。民部大夫行政等加談合。可令計成敗。其外之輩無左右不可執申訴訟事之旨被定之云々。
(訓読)十二日癸酉、諸訴論のこと、羽林(頼家)直に决断令め給ふ之條、之を停止令む可し。向後は大少の事に於て、北條殿(時政)、同じき四郎主(義時)、并びに兵庫頭広元朝臣、大夫属入道善信(三善康信)、掃部頭親能在京す、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、藤九郎入道蓮西(安達盛長)、足立左衛門尉遠元、梶原平三景時、民部大夫行政等談合を加へ、計ら令め成敗す可し。其の外之輩は左右無く訴訟の事を執り申す可からざる之旨、之を定め被ると云々。 - ^ 頼朝急逝直後に起こった三左衛門事件では、大江広元や中原親能が中心となって事態の収拾に当たっている。
- ^ 一方で構成者を見ると、北条は頼朝の姻戚、比企・八田は頼朝の乳母関係者、安達は頼朝の流人時代からの側近、梶原・和田・足立は頼朝の家政機関(侍所・公文所)の職員であり、三浦も義村の代に評定衆を務めている。吏僚も含めて全員が将軍権力を支える頼朝側近であり、地域棟梁格の有力御家人(千葉氏・小山氏・秩父氏)の意向は反映されていないとする見解もある[1]。
- ^ 『吾妻鏡』建久10年4月1日条によると、建久3年11月25日に行われた熊谷直実と久下直光の訴訟の口頭弁論の際に、直実が直光と梶原景時が通じていると疑って刀を抜いて髻を切ってそのまま逐電してしまうという騒動を起こし、これを見た頼朝が問注所の移転を命じたと記しているが、これでは頼朝の命令が6年間も行われなかったことに説明がつかなくなってしまう。しかも、直実が建久2年3月1日付に「地頭僧蓮生」名義で作成した譲状が直実直筆の実物であるとする研究発表がされたことで、建久3年当時に直実は既に出家していたことが確実になり、この訴訟に関する『吾妻鏡』の記述には少なくとも何らかの脚色があることが明らかになった[2]。となると、頼朝が問注所移転の命令を出したとする記述にも何らかの脚色・曲筆を疑う必要が出てくることになる。森内優子は問注所を自分の目の届く場所に置いて、訴訟を直接に裁断する権限を手放そうとしなかったのは頼朝であったとみている[3]。
- ^ 時政と息子の義時が同時に名前を連ねているが、この時期における北条氏の後継者は義時の異母弟である政範であったと考えられ、義時は北条庶流の江間氏の当主であったとみられる[5]。時政は頼家の外戚である北条氏の代表と見なせるが、義時は頼朝の家子を代表する立場での参加と考えられている[6]。
- ^ 姉の寒河尼の生年が保延3年(1137年)、子の小田知重の生年は永万元年(1165年)又は嘉応2年(1170年)である。
- ^ 西暦ではすでに1月であるが、和暦では12月。
- ^ 子の二階堂行村の生年が久寿2年(1155年)である。
出典
- ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年)
- ^ 林譲「熊谷直実の出家と往生に関する史料について―『吾妻鏡』史料批判の一事例―」(『東京大学史料編纂所研究紀要』15号、2005年)
- ^ 森内、2019年、P93-102.
- ^ 森内優子「熊谷直実の出家に関する一考察」(初出:(『(埼玉県立文書館)文書館紀要』12号、2008年)/所収:高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二八巻 熊谷直実』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-328-2)
- ^ 細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力』日本史史料研究会、2007年、P18-19.
- ^ 細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力』日本史史料研究会、2007年、P20-25.
- ^ a b c d e f g h i j 野口実『治承〜文治の内乱と鎌倉幕府の成立』清文堂出版、2014年
- ^ 川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年
- 1 十三人の合議制とは
- 2 十三人の合議制の概要
- 3 関連項目
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