家政機関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 07:22 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動家政機関(かせいきかん)とは、家産を管理する組織である。ここでは前近代における君主のそれについて記述する。
概略
王宮(royal household)や皇宮は君主の住居であるとともに、かつては行政機関でもあった。古代や中世においては、君主の財産・家産の管理業務が、国を管理する政府の前身となった(やや異なるが教皇と教皇庁の関係もこれに類似する)。君主の家政を執り行うそれは、宮廷の中核だった。ただし、大規模な宮廷では廷臣の数も多くなり、君主とは直接雇用関係にない者も多かった。
家政機関には身分によって厳密に区別された多数の職務があり、君主に近づきやすい非常に人気のある特別な地位の貴族から、料理人、フットマン、メイドなどの通常の家の使用人と同じ職務まで、多数の人間が含まれていた。さらに通常は、安全を確保するための特別な軍部隊までもが含まれていた。芸術家(芸術品を作る職人)、時計職人、詩人などの専門家は、彼らをヴァレ・ドゥ・シャンブルまたはそれに類似した職として任命することにより、王宮内に居場所を与えられることがあった。
多くの宮廷では、時間の経過とともに、単なる貴族の肩書へと変化した高位官職が見られた。それらは大抵の場合、王が本当に必要としていた業務(たとえば馬の管理など)をそのまま官職名にしていたのが、次第に職名だけが肩書として生き残ったものである。その場合、官職名のもとになった実務は王にとって不要になったか、あるいはそれほど高くない身分の職員の仕事となっていた[1]。
現代では、王の家産機関は国家の中央政府とはさまざまな点で異なる別の組織に進化した。ほとんどの現代の家政機関は、象徴としての元首のためのものになっている。
ヨーロッパ
ヨーロッパの君主の家産機関は、中世以来の継続的な歴史を持っている。以下はその代表例だが、先述のように職名と実際の職務が一致しているとは限らない。
デンマーク
フランス王国
フランス第一帝政
ロシア
スペイン
スウェーデン
イギリス
バチカン
アジア
中国
日本
タイ
関連項目
脚注
- ^
この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Household, Royal". Encyclopædia Britannica (英語). 13 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 813–814.
外部リンク
- “The Monarchy Today > The Royal Household > Royal Household departments” (英語). the Royal Household. 2009年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月16日閲覧。
家政機関
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平安時代以降の院、女院、親王家、摂関家以下の公卿の家政を担当する院司・家司の上首(長官)のこと、後にそれらの家に設置された政所 、侍所などの家政機関の長に対しても用いられた。 院司や家司は本来、別の官職を持つ貴族・官人であったが、設置者との私的なつながりによって任命された。延暦23年(804年)に無品親王家に別当設置が認められ、嵯峨天皇の譲位後に自己の後院である冷然院に別当を配置した(南淵永河・安倍安仁、院司の始まり)。10世紀には諸院・諸家が政所以下の家政機関を持つようになった。『西宮記』には院司の別当には公卿及び天皇在位時の蔵人頭が任じられる慣例になっていたことが記されている。平安時代初期の院司は1・2名であったが、院政期には数十名、江戸時代でも10名前後の院司別当が設置され、別当の中でも筆頭格の執事・執権や実務の中心となる年預、また院庁支配下の諸所別当などが置かれ、また身分によって「公卿別当」「四位別当」などの格付けが定められた。また、摂関家でも政所のみならず、摂関(藤氏長者)が統括する御厨や勧学院を始めとした大学別曹にも別当が設置された。親王家の場合には特に天皇によって任じられた勅別当が置かれる場合があった。 なお、鎌倉幕府の行政機関である政所、侍所などの長官を「別当」と称するのも、それらの機関が初代将軍源頼朝の家政機関が転じて鎌倉幕府の行政機関になったことに由来している。
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