院政期とは? わかりやすく解説

院政

(院政期 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/06 01:53 UTC 版)

院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする[1]。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す[2]




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院政期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:28 UTC 版)

「天皇」記事における「院政期」の解説

平安後期即位した後三条天皇は、摂関家外戚持たない立場だったことから、摂関権力から比較自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後上皇として政治運営にあたることを企図していたという説がある。 後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位し子息堀河天皇・孫鳥羽天皇いずれも幼少即位させた。これは、父後三条天皇遺志反し異母弟実仁親王輔仁親王帝位から遠ざけるため、当時天皇父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第朝廷における権力を掌握したため最終的に専制君主として朝廷君臨する至った。 この院政の展開により、摂関家勢力著しく後退した院政布いた上皇(院)は、多く貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君事実上君主)として君臨したが、それは父としての親権貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった治天の君は、自己の軍事力として北面武士保持し平氏源氏などの武士とも主従関係結んで重用したが、このことは結果的に武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生源氏による鎌倉幕府登場つながった政治的には、院政期に権門勢家国家からの自立度合い深める従い皇室という一権門の代表に滑り落ちた理念面では、歴代天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚追い込まれるという説話主張が度々見られるうになる仏法敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話広く知られている殊に後白河天皇のように、聖代帝王対比して仮借ない批判投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位正当化弁証せざるを得ない程に仏教流布背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位天皇ほど律令左右されず、恣意的な行動可能なため、治天私生活乱れ公的に暴政陥った後鳥羽上皇はさらに西面武士設置したが、承久の乱敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力失って幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府命令天皇任免される事態にまで至った時に両統迭立時代になると、神孫為君の論理安住出来なくなり徳治善政標榜するうになる花園天皇は「皇胤一統」の論理寄りかかる事を戒め君主としての徳の涵養力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判失脚正当化がされる事はあっても、天皇という制度否定される事は個々天皇に対して激し攻撃なされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物政治を行うべきという論理に姿を変えて日本定着するになった院政この後江戸時代まで続くが、実体的な政権構成したのは、白河院政から南北朝時代後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇崩御後わずかに残っていた朝廷政治的権力足利義満の手で、ほとんどすべて幕府接収され貴族たちも多く室町殿主従関係結んで幕府従属し院政支配する対象自体失い朝廷政府としての機能失った

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院政期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:55 UTC 版)

大内裏」の記事における「院政期」の解説

白河天皇永保2年1082年)に焼亡した内裏は、康和2年1100年)の再建までに足掛け19年要したこのため応徳3年1086年)に譲位された堀河天皇は、堀河院という里内裏践祚することとなった。また堀河天皇内裏再建後里内裏暮らした期間が長く天皇在位期間大半里内裏過ごした以後の院政期の天皇たちも同様で、鳥羽天皇15年半の在位期間中合計7か月程度しか内裏暮らしておらず、崇徳天皇儀式などのために大内裏に4回赴き滞在したが、内裏には一度足を踏み入れなかった。天永3年1112年)に鳥羽天皇里内裏である高陽院焼失した際には、本来の内裏存在して使用可能であるにもかかわらず次の里内裏」を選ぶ議論が行われた。『中右記によれば治天である白河法皇が「内裏殿舎甚だ広博なり」(内裏は広すぎる)という理由挙げて幼少天皇内裏住まい反対したといい、孫である天皇法皇御所である小六条殿に同居させて(それまで天皇と院の同居異例であった天皇庇護後見する院という政治体制体現した院政を敷く治天大内裏修築活用を嫌い、慈円『愚管抄』には藤原忠通慈円の父)が「捨てられた」大内裏復興提起したものの鳥羽院退けた話が載せられている。康和2年1100年再建内裏承久元年1219年)まで119年焼失免れるが、天皇日常的に暮らさなくなったために火を使わなくなったことが理由考えられる大内裏全体荒廃一途たどったが、特定の建物儀礼の場として維持された。即位式を行う大極殿などで、即位式が行われる時期だけは修造復興なされた保元2年1157年)、後白河天皇近臣である信西藤原通憲)が主導して大内裏再建着手された。算術明る信西は自ら計算行って各国に無理な費用分担させたといい、1年足らず造営終えた。ただし近年の研究によれば信西再建したのは朝堂院(その正殿である大極殿回廊会昌門)・朱雀門など限られたものであり、二条天皇即位式保元3年1158年))の会場として整備されたものと考えられる安元3年1177年)に発生した安元の大火太郎焼亡)は、朝堂院大極殿を含む)が焼失するなど、大内裏壊滅的被害与えた内裏焼失免れた)。大極殿再建が間に合わなかったために、安徳天皇内裏紫宸殿即位式行ったが、安徳天皇平家とともに没したために内裏での即位は「凶例」と見なされ、後鳥羽天皇太政官庁即位した後三条天皇が、焼失した大極殿代わりに太政官庁即位式行った前例があった)。以後室町期まで、中世天皇太政官庁即位することが定例となる。 治承・寿永の乱経て朝廷明白な財政難陥った安元の大火焼失した大内裏再建遅々として進まず文治5年1189年)にようやく再建始まった承久元年1219年)に承久の乱内裏含めた大内裏焼失。その再建途上安貞元年1227年)に火災によって全焼しこれをもって大内裏再建放棄された。

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