院政期以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
安田元久などの旧来の学説では、源義家の後三年の役の頃から、「武士の棟梁」たる源氏と、在地武士団との主従関係が生まれ始めたとするが、『奥州後三年記』に見える義家の郎党の主力は京武者コネクションである。相模国の武士の代表として見られていた鎌倉権五郎景正(景政)、三浦の平太郎為次にしても、おそらくは親の代からの京武者コネクションによる参加と見てもおかしくはない。 11世紀-12世紀の間に、開発領主として発展していったことが豊富な資料で裏付けられる安芸国高田郡の藤原氏、但馬国温泉郷(ゆのごう)の平氏、伊賀国名張郡の丈部(はせつかべ)氏、下総国相馬御厨の千葉氏、その他の例をみても、彼らが当時の「武士の棟梁」と言われた軍事貴族と人格的な主従関係をもっていたと証明することは非常に困難とされる。 その主従関係は、後の時代の『吾妻鏡』や、御家人の伝承の中にしか見いだすことが出来ない。千葉氏や、権五郎景正の子孫、ないしは一族とされる大庭氏などにおいては、『吾妻鏡』にある「相伝の家人」が、事実と相違することは既に見てきた通りである。 後に「武士」として登場する、関東の開発領主達の11世紀末までの状況がどうだったかといえば、当時はその所領支配は、郡司、郷司などの公的な諸職を媒介として、開墾を行い、村落を形成することを課題としはじめた頃であり、領地支配、あるいはその拡大において、隣接する開発領主との抗争が日常化するほどの飽和点にはまだ至ってはいない。 11世後半に相模国において武力衝突のあったことを示す記録はある。しかし彼らは依然として「武芸をもって業とする」特種な存在であったといえる。その特種な存在であった千葉氏や、鎌倉権五郎景正の一族ら、辺境軍事貴族の子孫達が絡む、例えば大庭御厨の事件にしても、武士同士の戦乱とはほど遠い小競り合いにすぎない。 とはいえ、『後二条師通記』1099年(康和元年)5月3日条に、白河院より「諸国に兵仗多く満つ、宣旨を下され制止を加ふべし」との指示が記されている。この「諸国」は近畿でのことと思われるが、世相として自力救済的な様相を帯び始めたということは当時頻発した強訴の中にも見てとれるかもしれない。
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