三浦の平太郎為次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)
同国のつはもの三浦の平太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふまるゝ事にあらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかヾめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよいよならびなし。ちからをつくしてせめたヽかふといへども、城おつべきやうなし。 この三浦氏は確かに関東の豪族で、開拓領主であり、義朝にも、頼朝にも従っているので、「源氏が関東の武士団を郎党にしました」と言える良い例ではある。しかし、こちらも京で源頼光に仕えながら、関東との間を行き来していた平貞道(貞通)の孫で、鎌倉権五郎景政の従兄弟との噂(野口実、元木泰雄両氏とか)もあるので、最近野口が説をたてた「一所傍輩ネットワーク」も無視出来ない。 三崎庄は摂関家の荘園である。三浦氏の系図は『尊卑分脈』の中ですら、3種類も出てきてはっきりしない。特に、この『奥州後三年記』に登場する為次以前に混乱が見られるが、為次の子、義次(義継)の代から三浦庄司とある。これは3系統の系図の内、庄司の記載のある2系統で一致している。(残り1系統は三浦義明・義澄親子が逆転するなどとても参考には出来ない)「三浦の平太為次」の子、で、三浦義明の父・三浦庄司吉次(義継)の名は、「大庭御厨の濫妨」事件で源義朝側で攻めた方(訴えられた方)に出てくる。天養記(官宣旨案)は太政官符の下書きなので、第一級の史料である。これらのことから、三浦の平太為次はこの合戦の頃は三浦に、そう大きな所領は持っていない、ないしはそもそも三浦には居なかったことすら推定される。
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