義家郎党に見る関東の武士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)
「奥州後三年記」の記事における「義家郎党に見る関東の武士」の解説
以上から、後三年の役を伝える唯一の史料、『奥州後三年記』においては、関東の武士と言えるものは、鎌倉権五郎景政、三浦の平太郎為次だけに限られる。 最近野口実は『源氏と関東武士』(吉川弘文館、2007年7月)の中で、義家への鎌倉権五郎景政、三浦の平太郎為次の与力は、当時(1086年)の相模守が義家の母方の従兄弟で同じ平直方を祖父にもつ、藤原棟綱であったことも関係しはしないか、としている。受領が、「国の兵」、または「館の者共」を、遠い陸奥の国まで派遣することが出来たのかどうかはなんとも言えないが、便宜をはかったぐらいはあるかもしれない。 しかし、義家が生まれたとき、鎌倉の地が、屋敷とともに母方の祖父平直方から、父源頼義に譲られたという話が、南北朝時代の遊行寺(時宗本山)の文書に見え、また『吾妻鏡』(治承四年「庚子」(1180)十月小十二日条)が伝える 由比元八幡 の経緯などからも、義家が相模国鎌倉の別業(拠点)を持っていた、とすることは不自然ではない。 そこから、鎌倉、及びそれに隣接する土地の武士である、鎌倉権五郎景政、三浦の平太郎為次などに、また同様に、かつて受領を務めた下野国の武士団の一部(『奥州後三年記』には明確には登場しないが)、などに対しては、それほど強力ではないにしても、ある程度の影響力を持っていたと見ることは妥当かと思う。 しかしながら、それは今日まで一般に思われてきたような、「関東の武士がこぞって義家の傘下に」、というイメージとは、ほど遠いものがある。 ところで、先に小代伊重の置文に、京都守護職であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた絵巻を見せてもらったと記されていることに触れたが、平賀朝雅は新羅三郎義光の孫で、北条時政とその後妻牧の方の娘婿にあたり、北条時政の失脚と同時に京で殺された。従ってそれは京都守護職となった1203年から、殺される1205年までの間ということになる。 小代伊重はその絵の中に、義家の対の座に副将軍として、小代氏の祖先にして児玉党の長、有大夫弘行が「赤皮の烏帽子かけをして座って」いるのを一族の者が確かに見たというのである。ところがその後、誰かがそれを別の名に書き換えてしまったと。そういうことはよくあり、現存する竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』にも痕跡がある。 有大夫弘行(有道遠峰大夫弘行)は武蔵七党の一つである児玉党の本宗家2代目であるが、本貫は武蔵国の秩父・阿久原牧であり、「牧」は馬の放牧地である。そしてその所有者は多くの場合朝廷である(児玉党祖、児玉惟行も参照)。そこから京の武官の一部を構成する馬寮とのつながり、義家以前の平将門の時代から「牧」は武士団のベースであること、そして奥州は良馬の産地であり、義家以前からの陸奥とのつながりも当然想定され、陸奥守であり、また軍事貴族である義家への接近は十分に考えられる。 小代伊重の置文に書かれたことが事実なら、義家の有力武将として武蔵・児玉党も、参戦していたことになるが、しかしそもそも承安版『後三年絵』そのものが伝わっていないので、確認のしようがない。
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