義家の郎党の構成とは? わかりやすく解説

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義家の郎党の構成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)

奥州後三年記」の記事における「義家の郎党の構成」の解説

金沢の柵での戦い終盤で冬になり、柵を包囲する義家軍も「大雪遭い官軍、戦うに利をうしない軍兵多く寒さ死し飢えて死す或いは馬肉を切りて食し・・・」(康富記)という、前年沼柵での悲惨な敗北思い出し自分死んだあと、国府多賀城)に残る妻子が、なんとか京へ帰れるようにと、手紙書き、旅賃に変えられそうなものを送り届けるシーンがある。 城をまきて秋より冬にをよびぬ。又さむくつめたくなりてみなこゞへて、をのをのかなしみていふやう、去年のごとくに大雪ふらん事、すでに今日明日の事なり。にあひなば、こゞへ死なん事うたがふべからず妻子どもみな国府にあり。をのをのいかでか京へのぼるべきといひて泣々文ども書て、われらは一ぢやうにをぼれて死なんとす。是をうりて粮料として、いかにもして京へかへり上るべしと云て、我きたるきせながをぬぎ、乗馬どもを国府へやる。 この一節の中から、彼らが京から義家着いてきたことが解る。それも5年から6年任国統治為に最初から引き連れてた行政のスタッフ、期間契約社員としての郎党(館の者共と見られる20世紀第三四半期学説では、義家多く関東武士引き連れて後三年の役戦ったとされる。しかし、農閑期一時的な出稼ぎ戦争に、妻子伴ってくるようなことはあり得ないまた、その妻子帰る場所は京ではない。 更に、前九年の役でも源頼義に、関東武士が沢山従ったが、それは朝廷命令あったからである。今回朝廷命令なしに、義家個人の力で関東武士大勢動員したこの間に、武士団大きな成長源氏武士の棟梁の上昇があった、と見られてきた。安田元久も『源義家』の中でこう書いている。 もちろんこの時代に、義家首長とする完全な私的武士団組織されいたものとは考えられない一つ戦闘組織としての大規模な武士団形成されるのは、12世紀半ば頃であり、義家時代には、彼を頂点として、その下にいくつかの独立した武士団が、ヒエラルヒッシュに統属されるという形は考えられない。しかし、この戦役通じて東国在地武士と、義家の間に、私的主従関係馴致され、さらにその関係が強化されていったことは否定できないのである。 そこで、後三年の役現地様子伝え最古の史料、『奥州後三年記』の中で、義家郎党として出てくる登場人物見ていくことにする。

※この「義家の郎党の構成」の解説は、「奥州後三年記」の解説の一部です。
「義家の郎党の構成」を含む「奥州後三年記」の記事については、「奥州後三年記」の概要を参照ください。

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