三浦の乱から文禄の役まで
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1512年、三浦の乱の講和条約として壬申約条が締結され貿易は再開される。しかし、島主歳遣船は25隻に半減し深処倭名義通交の大半も停止させられ、宗氏は通交権の大半を失う結果となっていた。宗氏はこの危機を偽日本国王使を派遣して乗り切る。 1482年に牙符制が導入されて以降、偽日本国王使通交には幕府の秘蔵する牙符が必要となっていた。牙符制導入後20年ほどは、足利義政が牙符を秘蔵して離さなかったことから偽日本国王使・偽王城大臣使の通交は阻まれていた。しかし明応の政変によって将軍家が分裂したことにより、牙符は西国有力守護を味方につける道具として切り売りされ流出する。最初に牙符を入手したのは大内氏である。大内氏は牙符を用いて1501年の偽使通交を皮切りに、1511・12年には宗氏の要請を受け壬申約条締結のための日本国王使を派遣するなど、活発に偽日本国王使通交を行った。1501年から文禄の役直前の1591年までに日本国王使は計29回通交しその大半は偽使であったが、そのうちの5回は大内氏の意向を反映したもので日明貿易における大内氏の正統化工作などを行っている。大内氏滅亡後、大内氏所蔵牙符は毛利氏が受け継ぎ、また大友氏も別個に牙符を入手していた。宗氏は大内氏・大友氏・毛利氏と良好な関係を構築することでこれらの牙符を借り受け、偽日本国王使・偽王城大臣使通交を行った。宗氏は偽日本国王使通交によりそれ自体で貿易を行うだけでなく、壬申約条で削減された島主歳遣船の増枠交渉や同約条で停止された深処倭通交権の復活交渉も進め、1557年の丁巳約条で島主歳遣船を30隻に、63・67年には合計22名の深処倭名義通交権の復活を勝ち取り、偽使通交権の再集積を進めた。 三浦の乱後には偽受職人と呼ばれる新たな偽使が出現している。受職人とは朝鮮王朝の被官となり官位と通交権を得た者のことであるが、受図書人が代理人による通交を認められていたのに対し受職人の通交では本人が朝鮮に赴くことが義務付けられていた。三浦の乱により掌握通交権が激減したことを受け、宗氏は通交権を直臣・守護代家などの権力中枢部に集中的に配分していた。その結果権益配分からあぶれた対馬の地侍達は、受職人化して独自の通交権を確保しようと試みた。しかし朝鮮王朝は、対馬を在地とする受職人に関しては正四品以上の官位を持つ者に通交を制限したため、地侍達は在地を壱岐・薩摩などと偽り偽受職人として通交した。偽受職人の場合、偽使と言っても名義を偽ったのではなく在地を偽ったものであり、彼等の多くは実名を名乗り通交を行った。この偽受職人の通交権は、受職人本人が通交しなければならないという制約上他者に譲渡出来るものではなく、また後継者に引き継ぎも難しかったようであり、大半が1代限りの通交に止まった。 三浦の乱によって宗氏掌握通交権は年間25隻まで激減する。しかし偽日本国王使によって偽使通交権の再集積が進んだ結果、宗氏掌握通交権は1530年代には59隻、1570〜80年代には120隻近くまで回復していた(表3参照)。これは偽日本国王使・偽王城大臣使を含めない数字であり、実際は三浦の乱直前と同等の規模であったかもしれない。このころになると、日朝貿易は宗氏の独占するところとなっており、これは廃藩置県により対馬府中藩が解体されるまで宗氏の既得権として引き継がれることになる。しかし1592年の文禄の役の勃発と共に日朝の国交は断絶し、こうした偽使通交は終息する。
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