終息
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終息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:08 UTC 版)
一揆の首謀者たちがカールたちの裏切りを知ったのは11月9日午前5時になってからだった。彼らはカール達が敵に回った事態を想定していなかった。ヒトラーたちは一時ビュルガーブロイケラーに戻り、司令部はレームに託された。昼頃まで議論が続き、クリーベルがオーストリア国境のローゼンハイムへの撤退を提案したが却下され、ルーデンドルフの発案で、レームが包囲されているバイエルン軍司令部へのデモ行進を行う事が決まった。 午前11時30分に行進が始まったが、このときデモ隊はほとんど丸腰であった。武装している者にも「実弾を抜き取っておけ」という命令が出ていた。ルーデンドルフを前面に立てれば軍や警察も手出しができまいと高をくくっていたが、オデオン広場のフェルトヘルンハレ(将軍廟)近くには武装警察と国防軍がピケラインを張っていた。12時30分頃、昼過ぎにデモ隊がフェルトヘルンハレ前にさしかかったとき、一発の銃声が響いた。この銃撃で一人の軍曹が死亡し、その直後に警官隊はデモ部隊に対する一斉射撃を行った。後方の国防軍装甲車も空に向けて威嚇射撃を行った。 ヒトラーへの銃弾は党員ウルリヒ・グラーフが身を挺して防いだが、ヒトラーと肩を組んでいたショイブナー=リヒターが銃撃で即死、ヒトラーは倒れかかってきた彼にひきずられて前にのめり、左肩を脱臼した。ルーデンドルフは行進を止めずに銃火の中を警官隊の隊列まで進み、逮捕された。 ゲーリングは足を負傷したが居合わせたユダヤ人の女性に助けられ、オーストリアに亡命した。午後2時ごろ、レームもバイエルン軍管区司令部で降伏し、占拠部隊は武装解除された上で撤退を許可された。当時23歳のハインリヒ・ヒムラーもその中に入っていた。部隊が死者の遺体を遺族の元に運んだあと、レームをはじめとする指導者だけが逮捕された。 ヒトラーはシュタッフェル湖のほとりにあるナチス幹部エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に逃亡、彼の妻エルナ(ドイツ語版))がヒトラーの面倒を見ていた。2日後に警察が別荘に到着した。ヒトラーは絶望し、ピストルで自殺を図ろうとしたが、エルナが銃を取り上げ「あなた自身が死んでも、あなたを信じてついてきた者を見捨てるのか」と説得した。この後、ヒトラーは落ち着きを取り戻し、ナチス幹部に対する今後の指導を託すメモを残した。これによると、運動の指導と機関紙の管理をアルフレート・ローゼンベルク、財政の管理をマックス・アマンに託すものであった。まもなく警察に逮捕されたヒトラーは、政府や役人に対する批判を叫んでいた。 このとき別働隊を率いていたグレゴール・シュトラッサーは部隊をまとめて撤退した。また、ハンフシュテングル、アマン、ヘルマン・エッサーらのナチス幹部もそれぞれに逃亡したが、ディートリヒ・エッカートなどは逮捕された。ルドルフ・ヘスは恩師カール・ハウスホーファーの元に逃れ、自首を勧められたが潜伏生活を行う事になる。エッカートは、病気が理由ですぐに釈放され、12月26日にベルヒテスガーデンでモルヒネ中毒による心臓発作で死去した。 この一連の騒動で19名(うち3名は警官)の犠牲者が出た。現在、ビュルガーブロイケラーの跡地には、ナチスによる最初の犠牲者として3人の警官の死を弔う銘版が置かれている。
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「終息」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(閉鎖) | 終会 終刊 終息 終熄 終結 |
名詞およびサ変動詞(終了) | 訳了 検了 終息 結審 終結 |
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