ウルリヒ・グラーフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 海外の政治家 > ナチ党員 > ウルリヒ・グラーフの意味・解説 

ウルリヒ・グラーフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/29 07:45 UTC 版)

1932年、親衛隊少佐時代のウルリヒ・グラーフ

ウルリヒ・グラーフ(Ulrich Graf、1878年7月6日1950年3月3日)は、ドイツの政治家アドルフ・ヒトラーボディーガードだった人物。草創期からの親衛隊の隊員であり、最終階級は親衛隊少将

略歴

バッハハーゲル(de:Bachhagel)出身で、屑肉屋(Freibankmetzger)を生業としていた。基礎教育を受けた後で軍に入隊したが、1904年に負傷がもとで除隊した。その後、ミュンヘンで公務員を務めた。第一次世界大戦後にナチ党の前身ドイツ労働者党(DAP)に参加し、1921年にナチ党に入党(党員番号2,882)。アマチュアのレスラーだったため、1920年から1923年までアドルフ・ヒトラーのボディーガードを務め、後の親衛隊の前身となる「アドルフ・ヒトラー特攻隊」(Stoßtrupp-Hitler)のメンバーであった。1923年のミュンヘン一揆の際に警官隊から銃撃を受けた際にヒトラーの前に立ってかばい、代わりに銃弾を受けて激しく負傷した。ウルリヒは銃弾を受けながらも叫んだ。「撃つな。ヒトラー、ルーデンドルフ両閣下だ!!」。後にこの功績でヒトラーから血の勲章(1923年11月9日記念メダル)を授与された。

1924年12月にミュンヘン市の市議会議員に選出され、翌1925年1月に就任。同年には、再建されたナチ党へ再入党(新しい党員番は8)するとともに、新たに組織された親衛隊の草創期メンバーとなり(隊員番号26)、さらに党内仲裁委員会(Parteischiedsgericht)の責任者にもなった。1929年に市会議員として再選し、1935年には市参事に就任。1936年には国会議員となる。1943年に親衛隊少将に昇進。1948年に5年の労働刑判決を受けた。1950年にミュンヘンにおいて死去した。

参考文献

  • ハインツ・ヘーネ著『SSの歴史 髑髏の結社』(フジ出版社)28ページ。ISBN 4-89226-050-9日本語
  • Charles Hamilton著『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』274ページ。ISBN 0912138270英語




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウルリヒ・グラーフ」の関連用語

ウルリヒ・グラーフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウルリヒ・グラーフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウルリヒ・グラーフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS