ミュンヘン‐いっき【ミュンヘン一揆】
ミュンヘン一揆
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ミュンヘン一揆(ミュンヘンいっき、ドイツ語: München Putsch)は、1923年11月8日から9日に、ドイツ国のミュンヘンでエーリヒ・ルーデンドルフ、アドルフ・ヒトラーら国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を始めとする州右派勢力によって結成されたドイツ闘争連盟が起こしたクーデター未遂事件。半日あまりで鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕された。
注釈
出典
- ^ 村瀬、ナチズム、152p
- ^ 村瀬、ナチズム、116p
- ^ 村瀬、ナチズム、157p
- ^ 村瀬、ナチズム、121p
- ^ 村瀬、ナチズム、139p
- ^ 村瀬、ナチズム、142p
- ^ 村瀬、ナチズム、144p
- ^ 村瀬、ナチズム、148p
- ^ 村瀬、ナチズム、163-164p
- ^ 村瀬、ナチズム、153-157p
- ^ 『行動する異端: 秦豊吉と丸木砂土』森彰英、ティビーエスブリタニカ, 1998、p85
- ^ 村瀬、166-168p
- ^ 村瀬、168p
- ^ トーランド、325p
- ^ トーランド、329p
- ^ 村瀬、ナチズム、170p
- ^ ジョン・ウィーラー=ベネット『権力の応酬』
- ^ 村瀬、ナチズム、176p
- ^ トーランド、343p
- ^ 村瀬、ナチズム、179p
- ^ トーランド 354p
- ^ トーランド、352p
- ^ トーランド 373~374p
- ^ 村瀬、ナチズム、183-186p
- ^ ジョン・トーランド著、永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』1巻、382p
- ^ トーランド 369~370p
- ^ 1937年の追悼式典の映像。https://archive.org/details/fur-uns-1937 (インターネットアーカイブ)
ミュンヘン一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:26 UTC 版)
詳細は「ミュンヘン一揆」を参照 1923年11月8日午後8時30分、ヒトラーはドイツ闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中のビュルガーブロイケラーを占拠し、一揆を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない。第1大隊はオーバーラント義勇軍第3大隊とともに国軍第19連隊第1大隊から武器を確保しようとしたが、交渉に失敗して退却、その後ビュルガーブロイケラーへ帰還した。第2大隊は郷土軍が解散の際に隠した武器を確保してヴィッテルスバッハ橋で小休止した。第3大隊はビュルガーブロイケラーで待機した。一方レームは「帝国旗団」や「ミュンヘン闘争団」、突撃隊の一部を率いて軍司令部を占拠した。また突撃隊の学生グループはルドルフ・ヘスの指揮のもとに州首相オイゲン・フォン・クニリングらの監禁にあたった。 軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、11月9日12時30分、ルーデンドルフとともにドイツ闘争同盟を率いてミュンヘン中心部のオデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。「ヒトラー・ミュンヘン衝撃隊」が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、オーストリアへ国外逃亡した。一方マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターと腕を組んでいたヒトラーは彼が撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された。軍司令部を占拠したレームたちも午後2時頃に鎮圧軍に投降した。
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ミュンヘン一揆
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「オットー・フォン・ロッソウ」の記事における「ミュンヘン一揆」の解説
ヒトラー率いるナチ党は11月8日夜にカール、ロッソウ、ザイサーが演説中だった「ビュルガーブロイケラー」を占拠して強引にベルリン進軍を迫った(ミュンヘン一揆)。ヒトラーの説得にたいしてカールやザイサーはヒトラーに抗議したが、ロッソウは口をつぐんでいた。その後、エーリヒ・ルーデンドルフ大将が到着し、ルーデンドルフから説得を受けると軍人のロッソウ少将が真っ先に大将からの命令としてこれを受け入れ、一揆への協力を表明した。ついで警察のザイサー大佐も支持し、最後には文官のカールも支持を表明した。 しかしロッソウ少将はヒトラーがビュルガーブロイケラーを外した隙を見計らってルーデンドルフに一揆に協力するためには軍司令部に戻り、命令を下さねばならないと主張してビュルガーブロイケラーを出る許可を求めた。ルーデンドルフはこれを許可してしまった。ついでルーデンドルフはカール総督とザイサー大佐にも外へ出る許可を与えた。 そして11月9日午前2時55分にロッソウ少将は次の電報を発した。 州総督フォン・カール、フォン・ザイサー大佐およびフォン・ロッソウ将軍はヒトラーの一揆を容認しない。我々の一揆支持の表明は銃口を突き付けられたためにやむなくしたものであり、無効である。上記氏名の濫用に注意せよ。 — フォン・ロッソウ だがそれでもルーデンドルフは軍も警察も先の戦争の英雄である自分に銃を撃ってくることはあるまいと確信していた。ヒトラーも同意し、11月9日昼にヒトラーとルーデンドルフ将軍は突撃隊員を率いてミュンヘン中心部へ行進を開始した。しかしバイエルン州警官隊が発砲。突撃隊員たちは総崩れとなり、一揆は失敗に終わった。
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ミュンヘン一揆
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「マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター」の記事における「ミュンヘン一揆」の解説
詳細は「ミュンヘン一揆」を参照 1923年、フランスのルール占領に端を発したバイエルン州政府とドイツ政府の対立の中で、ナチス党を含む右派政党の団体ドイツ闘争連盟は、イタリアのローマ進軍に習って、バイエルン州政府の掌握とドイツ政府の打倒を計画した。前段階としてバイエルン州政府掌握のクーデター計画が策定されたが、この主務者はマックスが努めた。 1923年11月8日、ヒトラーらはミュンヘンのビアホールビュルガーブロイケラーでバイエルン州政府の高官三人を軟禁し、ドイツ闘争連盟への協力を要請した。しかし三人は応じなかったため、マックスは説得のためにルーデンドルフの出馬を仰いだ。ルーデンドルフの説得で三人は応諾したが、内心では反発していた。三人はその後帰宅すると言いだしたため、ルーデンドルフがこれを許可した。マックスは三人の解放に反対したが容れられなかった。三人は帰宅後直ちに鎮圧に周り、一揆勢は窮地に追い込まれた。 一揆勢は状況を打開するため、デモ行進を行った。行進ではヒトラーが中心となり、マックスが右に、左にルーデンドルフが並び、腕を組んで歩いた。行進がオデオン広場にさしかかると警官隊が発砲した。マックスは胸に銃弾を受けて即死し、倒れた。ヒトラーは倒れるマックスに引きずられて倒れ、腕を脱臼したものの銃弾直撃は免れた。 ヒトラーはマックスの死を「取り返しのつかない損失」と嘆いた。ヒトラーの著書である「我が闘争」の第一部には、その日に死んだTheodor von der Pfordten、Klaus von Papeとマックスに対する献辞が書かれている。
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ミュンヘン一揆
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「エーリヒ・ルーデンドルフ」の記事における「ミュンヘン一揆」の解説
1923年9月2日にナチ党、突撃隊、国旗団、オーバーラント団(ドイツ語版)などが結集して右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟(ドイツ語版)」を結成した。実質的な指揮権はヒトラーが掌握したが、ルーデンドルフが同団体の名誉総裁に就任した。 1923年11月、ヒトラーは闘争連盟を指揮してバイエルン州総督グスタフ・フォン・カール、バイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー(ドイツ語版)大佐の三名に「ベルリン進軍」を迫るため、ミュンヘン一揆を起こすことを企図した。 一揆当日の1923年11月8日、ヒトラーがカールが演説中の「ビュルガーブロイケラー」を占拠したと聞いたルーデンドルフはここに駆け付けた。ヒトラーの一揆協力要請にカール、ロッソウ、ザイサーらは渋っていたが、ルーデンドルフの説得を受けるとまず軍人のロッソウ少将が協力を申し出た。ついで警察のザイサー大佐もこれに従った。文官のカールだけはその後もしばらく渋っていたが、結局最後はカールも協力することを表明した。しかしヒトラーが後をルーデンドルフに任せてビュルガーブロイケラーを一時離れた際、ルーデンドルフは、ロッソウ少将の言葉を信じて彼に外へ出る許可を与えた。ついでカール総督とザイサー大佐にも外へ出る許可を与えた。ヒトラーが戻るとカールやロッソウたちがいないのにヒトラーはびっくりして解放したルーデンドルフを非難したが、ルーデンドルフは元伍長を冷ややかな目で見ると「ドイツ軍将校は誓いを破らない」と言い返したという。しかしこの後、ロッソウ少将は一揆の鎮圧命令を発している。これを聞いたルーデンドルフは「私はドイツ軍将校の誓いを二度と信用できない」と述べて意気消沈してしまったという。 11月9日朝、ルーデンドルフはヒトラーとともにナチ党員を率いてミュンヘン市中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーを中心にして左にルーデンドルフ、右にマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターが先頭に並び、三人は腕を組んだ。ヒトラーもルーデンドルフ自身も一次大戦の英雄であるルーデンドルフに発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン警官隊は彼らに向けて発砲した。ナチ党員たちの一団は総崩れになり、撤退した。ルーデンドルフは逃げることなく、警官たちの方へ歩み、そのまま逮捕されている。 1924年2月26日、逃亡先で逮捕されたヒトラーとともに裁判にかけられた。裁判中、その雄弁で法廷を圧倒したヒトラーに比べ、ルーデンドルフは脇役になってしまった。そのうえヒトラーへの憤慨もしだいにあらわにするようになり、公判後には弁護士のハンス・フランクに「ヒトラーは私を騙したのだ。あの男は私に嘘を吐いた。あの馬鹿げたプッチの晩、軍隊は一人残らずプッチを支持していると言った。あいつはただの演説屋で山師にすぎない」とぶちまけている。恐らく伍長風情が自分より目立っているのが気に入らなかった物と思われる。 ヒトラーが一揆の責任を一身に引き受けたのに対して、ルーデンドルフはひたすら責任を回避する弁に終始した。しかしルーデンドルフの尊大な態度と威厳は凄まじく、しばしば自分が裁判長であるかのように判事や検事を怒鳴りつけた。イギリス人特派員G・ウォード・プライスはその情景を次のように記述している。「閲兵場で号令でもかける調子で吠えたてた。音節の一つ一つをぽきぽきと切り離して、そして彼の高圧的な声が響き渡ると、小柄な裁判長はぶるぶると震えだし、揺れ動く白い山羊ひげを手で押さえなければならなかった」。 4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の禁固刑、ルーデンドルフは無罪であった。裁判では精神状態が重度の疲弊状態にあるとして無罪放免になった。 しかしルーデンドルフは「わたしはこの無罪判決を、私の軍服と勲章にふさわしくない不名誉と心得る」と言い出し、裁判長のナイトハルトを困惑させた。
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ミュンヘン一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 13:00 UTC 版)
「国民社会主義ドイツ労働者党」の記事における「ミュンヘン一揆」の解説
詳細は「ミュンヘン一揆」を参照 1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した(ルール問題)。ヴィルヘルム・クーノ首相率いる政府はサボタージュによる抵抗を呼びかけたため、工業の停止と占領によって生じた損害への補償のためインフレーションがさらに激化した。ナチ党は消極的な抵抗しか行えない政府を批判するとともに、突撃隊を拡充してフランス占領軍に対抗しようとした。2月に第一次世界大戦の英雄ヘルマン・ゲーリングが突撃隊司令官となったのはその流れの一つで、3月からは本格的な軍事訓練が行われた。 5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲター(ドイツ語版)がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。彼の死をナチスが喧伝したことにより、右翼はもとより左翼からも英雄視された。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。 しかし、5月3日にはレームが参謀将校から左遷され、軍のドイツ義勇軍援助はエーリヒ・ルーデンドルフ将軍の影響下にあるヘルマン・クリーベル大尉の指揮下に置かれることになった。このため元軍人が多い突撃隊へのヒトラーの影響力は弱まった。9月には突撃隊と共働団参加団体が連合し、「ドイツ闘争連盟」が組織された。クリーベルが議長であり、ヒトラーも指導者の一人になった。 不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール主導のベルリン進軍は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホール「ビュルガーブロイケラー」においてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000-3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。 首謀者ヒトラーを初め、参加した党員らは逮捕され、国内に残った幹部はアルフレート・ローゼンベルクなどわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラーの独演会と化し、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。ヒトラーはランツベルク刑務所で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反共和政の気運の高まりは衰えることはなく、ナチ党のいくつかの偽装団体が活動を続けた。 ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼は指導力に乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐドイツ民族自由党と共同して国民社会主義自由運動を結成し、1924年5月の選挙で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、彼の有力な腹心となった。同年12月の選挙では、国民社会主義自由運動の議席は14議席に減少し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。 また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリンク (Frontring) という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバン(ドイツ語版)と改称された。
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ミュンヘン一揆
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「アドルフ・ヒトラー」の記事における「ミュンヘン一揆」の解説
詳細は「ミュンヘン一揆」を参照 党勢を拡大したナチ党を含んだ左派政党の団体であるドイツ闘争連盟(ドイツ語版)は、イタリア王国のファシスト党が行ったローマ進軍を真似てベルリン進軍を望むようになった。バイエルン州で独裁権を握っていた州総督グスタフ・フォン・カールも同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カールは中央政府の圧力を受けてやがてその動きを鈍くした。 不満を感じたヒトラーは、カールにベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いて、彼が演説中のビアホール「ビュルガーブロイケラー」を占拠し、身柄を押さえた。ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ大将も駆け付け、彼の説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。しかしヒトラーがビュルガーブロイケラーを空けた隙に、カールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。 11月9日朝、ヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーもルーデンドルフも大戦の英雄に対しては軍も警察も強硬手段は取らないだろうという過信があった。しかし、バイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。ヒトラーは逃亡を図り、党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。逮捕直前には自殺を試みるが、ハンフシュテングルの妻ヘレーネによって制止された。収監後しばらくは虚脱状態となり、絶食した。失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている。 裁判でヒトラーは自信を取り戻し、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった。花束を持った女性の支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者まで現れた。司法の側もヒトラーに極めて同情的であり、主任検事が起訴状で「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」と評するほどであった。 1924年4月1日、ヒトラーは禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受けた。オーストリア国籍を持っていたヒトラーは国外追放されるおそれがあったが、判決では「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主はいない」として適用されなかった。この間、ヒトラーは禁止されていた党をアルフレート・ローゼンベルクの指導に任せていたが、ドイツ北部の実力者グレゴール・シュトラッサー、オットー・シュトラッサー兄弟らとの反目が激しくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携した偽装政党「国家社会主義自由運動」を立ち上げて国会議席を獲得し、さらに党をルーデンドルフのドイツ民族自由党と合同させた。これによりローゼンベルク、ヘルマン・エッサーらミュンヘン派、シュトラッサー兄弟らの北部派(ナチス左派)の関係は悪化したが、ヒトラーは介入しなかった。7月7日には著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者たることを止めて、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表する。この際にヘスによる口述筆記で執筆されたのが『我が闘争』である。ヒトラーは刑務所の職員まで信服させ、9月頃には所長から仮釈放の申請が行われ始めた。州政府は抵抗したが、裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり、12月20日に釈放された。シュトラッサーの運動は内部抗争によって分裂し、12月の選挙でも大敗を喫した。
※この「ミュンヘン一揆」の解説は、「アドルフ・ヒトラー」の解説の一部です。
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