ミュンヘン一揆の失敗と苦難の時
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「カリン・ゲーリング」の記事における「ミュンヘン一揆の失敗と苦難の時」の解説
1923年11月、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーと一次大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍が起こしたミュンヘン一揆に当時突撃隊司令官だったゲーリングも参加した。しかし一揆は失敗し、ゲーリングは行進の際に警官隊からの銃撃で腰に銃弾を受けた。ゲーリングとカリンは警察の追跡を振り切るためオーストリアのインスブルックへ国外逃亡した。カリンはインスブルックの病院で付きっきりで夫ゲーリングの看病をした。その後、カリンも病院への道すがらに共産党員から石を投げつけられて足の指を骨折し、ゲーリングと同じ病院の同じ病室に入院した。カリンは母親への手紙の中で警察にすべての財産を差し押さえられた苦境を書いている。しかしこれに続けて彼女はナチ党がこれをきっかけに必ず前進すると熱く語っている。母にあてた手紙には「ママ、ヒトラーの主義が失敗に終わった、彼らが諦めてしまったなどとお考えにならないで、事実はその正反対ですし、それを推し進める力は前よりも強いほどです」と書かれていた。 しかしナチ党内では党内人事を掌るアルフレート・ローゼンベルク(彼はゲーリングと不仲だった)がゲーリングの党籍を削除してしまっていた。1925年4月にはドイツに戻れないゲーリングに代わってカリンがミュンヘンへ戻り、まずミュンヘン一揆の指導者エーリヒ・ルーデンドルフ将軍と面会した。将軍に資金提供を求めたが、将軍は「祖国は見返りのない犠牲を求めている」などと体よく断った。続いてカリンはアドルフ・ヒトラーと面会し、まずゲーリングの党籍が剥奪されたことを告げた。ヒトラーはそのような事になっていたとは初めて知ったと答え、すぐに回復させることを約束した。またカリンが経済的な苦境について話すとヒトラーは戸棚の紙幣をわしづかみにしてカリンの手中に押し付けたという。カリンはヒトラーに感謝し、このときにヒトラーから渡されたヒトラーの写真をエーデルワイスの小枝とともに一番大切な宝物にしていた。 カリンがゲーリングの下に戻ると二人はすぐにスウェーデンへ移住し、カリンの実家フォン・フォック家に頼ることになった。しかし傷の激痛を和らげるためにモルヒネを常用するようになっていたゲーリングは精神的な障害を起こし、フォン・フォック家の資金で施設や精神病院へ入ることとなった。カリンはゲーリングを懸命に支え、何とかモルヒネ依存から抜け出させようとしたが、ゲーリングはモルヒネから離れられなかった。カリン自身も体が弱く、心臓発作で意識を失ったり、リューマチを患っていた。カリンは三人の内科医から不治の心臓病であり、先は長くないと宣告されていた。
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