ミュンヘン会談後の宥和政策
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「宥和政策」の記事における「ミュンヘン会談後の宥和政策」の解説
詳細は「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」および「ポーランド侵攻」を参照 ミュンヘン会談の結果、チェコスロバキアは要塞線やシュコダ社の軍需工場をはじめとする工場地帯を失い、ドイツに抵抗する力を無くした。1939年3月にはドイツの策動により、チェコスロバキアからスロバキア、カルパト・ウクライナが独立。スロバキアはドイツの保護国に、カルパト・ウクライナはドイツの同盟国ハンガリー王国に編入された。残ったチェコもドイツの要求に屈し、併合された。 これはミュンヘン会談の合意を完全に踏みにじるものであった。イギリスの世論は沸騰し、反独気運が高まった。チェンバレンは強硬な抗議を行ったが、軍事的措置はとらなかった。 次なるポーランド回廊を巡るドイツの要求に対し、イギリス・フランスはポーランドと同盟を結ぶことによってポーランドを援助し、ポーランドはドイツの要求に抵抗した。 1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、9月3日に英仏はついにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。当時西部戦線のドイツ軍兵力が29個師団だったのに対し、英仏は110個師団を有して英仏側が優勢であったが、英仏はポーランド援助やドイツ本土侵攻といった手段はとらず、防備にのみ務めた。高機動力を誇るドイツ軍の前にポーランド軍はいとも簡単に粉砕され、ポーランドはドイツとソ連によって東西に分割された。宥和政策と優柔不断な外交によりポーランドは大国と交わした条約を遵守されることなく侵略・占領された。
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