ドイツ本土侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:53 UTC 版)
「西部戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「ドイツ本土侵攻」の解説
詳細は「西側連合国軍のドイツ侵攻(英語版)」を参照 バルジの戦いで西部戦線は数ヶ月の停滞を余儀なくされたが、1945年2月からアイゼンハワーは長大な戦線の全面で前進を指示し、徐々にライン川西岸に迫っていた。3月1日はレマーゲンにてライン川東岸に撤退するドイツ軍が爆破しそこなった橋梁を発見し、ライン川渡河への足がかりをつかんだ。そして3月下旬には前線の大半がライン川西岸に到達し、3月23日より大規模なライン川渡河作戦(「プランダー作戦」)、翌24日にはアメリカ軍の渡河とルール工業地帯包囲を目的としたヴァーシティー作戦が展開され、両作戦は成功裏に終わった。 ライン川を渡河した連合軍は、北ドイツへはイギリス軍、中央および南ドイツへはアメリカ軍が侵攻を開始し、4月5日にはアメリカ軍がハノーファーを占領した。その後もカッセルやニュルンベルク、ハンブルクなど一部の都市を除いてドイツ軍の抵抗は少なかったため、連合軍の進軍速度は速く、4月11日にアメリカ軍はマクデブルクを占領した後、翌4月12日にはデッサウ近郊でエルベ川を渡河し、ベルリンまで100kmの地点に到達した。アメリカ軍内部ではベルリンへの進撃を唱える声もあったが、4月15日にソ連との事前の取り決めと、アルプス国家要塞の情報を警戒したアイゼンハワーはベルリン進撃を取り止める命令を出した。そのためアメリカ軍はエルベ川西岸で進軍を停止し、4月25日にエルベ川河岸のトルガウ(英語版)近郊でソ連軍第1ウクライナ戦線第5親衛軍の部隊と初めて出会っている(エルベの誓い)。 一方、西側連合軍は北ドイツおよび南ドイツとオーストリア方面へは進軍を続けた。北ドイツでは、イギリス軍が5月2日にハンブルクを占領することでデンマークへの進路を確保し、5月7日にリューベック近郊のヴィスマールでソ連軍と遭遇している(接触ライン(英語版))。南ドイツでは、進軍したアメリカ軍が4月28日にミュンヘンを占領し、さらにオーストリアのチロル地方に進軍した。4月末、アメリカ軍第3軍はチェコスロバキア国境を越えて進軍したため、チャーチルは4月30日にチェコスロバキアの首都であるプラハを確保するようアメリカ軍に要請したが、拒否されている。第3軍は5月6日にボヘミア地方西部のプルゼニを解放しているが、アイゼンハワーの命令によりそこで進軍を止めている。 「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」も参照 一方、ベルリンでは4月30日にヒトラーが自殺した。そして後継者とされたカール・デーニッツ提督のもとで、5月8日にドイツ国防軍は無条件降伏をした。
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