ドイツ本国への進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:40 UTC 版)
「第1親衛戦車旅団」の記事における「ドイツ本国への進軍」の解説
1945年2月末、カトゥコフ率いる第1親衛戦車軍は、北部ポンメルン(ロシア語版)におけるドイツ軍の防衛戦力を切り崩してバルト海へ到達するという、新たな任務を受領した。このため、第1親衛戦車旅団はオーデル川からノイヴェーデル(現ポーランド・ムルフ市(ロシア語版)シフィエンチニ(英語版))へ抜け、3月1日より付属部隊とともに、沼地や森林地帯、要塞や地雷原を突破して5日間で北へ100キロメートル移動した。 同日、旅団の砲兵部隊はドイツ軍の車列を撃破した後、グロース・メーレン(現ポーランド・ミエルノ(英語版))を占領し、第44戦車師団がテムニク方面へ進出する足がかりを築いた。旅団はさらに、ドランブルク(ロシア語版)=ヴェンゲーリンを結ぶ幹線道路と鉄道を遮断し、ハンケンハッテン駅を制圧して敵の列車部隊を抑え込んだ。軍団本営から離脱した旅団は、続けてシフェルバイン(ロシア語版)を占領した。レンツェン(ロシア語版)では敵の守備隊を破ってペルザンテ川を渡河し、3月5日にはベルガルト(ロシア語版)を制圧して、任務を完了させた。 ところが、第2白ロシア戦線(ロシア語版)がバルト海沿岸のダンツィヒを制圧するためには、早急の支援が必要になることが判明した。第1親衛戦車軍は、第2白ロシア戦線を援護するため反転して東部方面へ進軍した。道中ドイツ第1軍の大部隊を撃破すると、3月10日にはボリシャウを占領し、ポーランドの第1ワルシャワ機甲旅団(ロシア語版)と共闘してヒーノフ(ロシア語版)を急襲した。ヒーノフの強制収容所からは、様々な国籍の収容者約5万人が解放された。3月25日、旅団および付属部隊は、激しい戦闘の末にダンツィヒの要塞を打ち破り、この都市の解放に貢献した。 1945年4月26日、バルト海への突破口を開く司令部からの特別任務に際して、第1親衛戦車旅団は任務の成功に大きな貢献をしたことが評価され、ソビエト連邦最高会議幹部会令によって2等クトゥーゾフ勲章が授与された。 ダンツィヒを解放した後、旅団はベルリン攻勢作戦に加わるため、3月末にダンツィヒからオーデル川河畔へ帰還した。旅団司令官のアブラム・テムニク(ロシア語版)による巧みな指揮によって、4月15日から28日の間に、旅団は火砲194門、兵士1250人を撃破し、23門の火砲や9両の戦車を鹵獲して56人を捕虜に取る戦果をあげた。 4月16日の明け方、旅団は第8親衛機械化軍団(ロシア語版)(イヴァン・ドリョーモフ(ロシア語版)少将指揮)の先遣部隊と付属部隊(第400親衛自走砲連隊、第358親衛対空砲連隊、第405親衛独立迫撃砲師団など)とともにザクセンドルフ(ドイツ語版)の防衛線を破り、制圧した。続くゼーロウ高地の戦いでは、旅団も戦車や隊員の損失が嵩んだ(指揮官のボチコフスキーも重傷を負っている)。旅団の戦車は、鉄道と幹線道路の隘路に身を潜めて直接の被弾を防ぎながら、4月17日に第400親衛自走砲連隊と共闘してドリゲリン駅からドイツ軍を退け、ソ連のゼーロウ高地占領に貢献した。4月24日、第19自動車化狙撃兵旅団および第21自動車化狙撃兵旅団と共闘して、激戦の末にマックスドルフとトレブスを抑えた旅団は、シュプレー川を越えて、ベルリン郊外のヨハニスタール(ロシア語版)に向けて進軍した。 同日、旅団はテルトウ運河(ロシア語版)を渡ってノイケルンを占領したが、ノイケルンではその後5日間にわたって激しい市街戦が繰り広げられた。 4月23日、カトゥコフ率いる第1親衛戦車軍は、戦線司令官ゲオルギー・ジューコフより、特殊部隊を編成してベルリンのアドラースホーフ(ロシア語版)とテンペルホーフ(ロシア語版)に夜襲を仕掛け、同地区の飛行場を占領するように命令された。これらの飛行場には爆撃機のほかにも、アドルフ・ヒトラー総統の脱出用に用意された個人機や、ナチ党幹部の個人機が駐機されていたとされる。 アドラースホーフに関しては、戦車軍の前進地域に位置しており、戦線から3~4キロメートル離れているのみであるため、攻略は取り立てて困難なものではなかった。しかし、テンペルホーフはベルリン市のほぼ中心地にあり、総統官邸から3キロメートル離れていたため、攻略は極めて難しかった。アドラースホーフには、ウラジーミル・グラフォフ(ロシア語版)親衛少佐率いる偵察部隊が、この作戦で最も難易度の高いテンペルホーフには、大隊司令官のウラジーミル・ジューコフ(ロシア語版)親衛少佐が自ら志願し、赴くこととなった。 偵察部隊に与えられた任務は、飛行場で航空機を破壊し、本隊が到達するまで持ちこたえるというものである。テムニク率いる第1親衛戦車旅団は、他の部隊とともに、先行した偵察部隊の救援に向かった。その間、偵察部隊は2日にわたって敵の猛攻を凌ぎ、旅団の到達まで何とか持ちこたえた。戦線司令官ジューコフによる飛行場制圧の命令は遂行され、結果として1機たりとも飛行場から航空機を飛び立たせなかった。しかしながら、一連の戦闘では、テンペルホーフ方面で奮闘したウラジーミル・ジューコフ親衛少佐が戦死している。 続くベルリンでの市街戦では、特にベルリン・アンハルター駅(ロシア語版)周辺で激しい戦闘となった。援護のない戦車は砲撃やパンツァーファウストの餌食となりやすいため、事前に歩兵がマシンガンや小火器でパンツァーファウストの操作手などを片付けてから、戦車を通すのが定石である。しかし、旅団には機銃手が不足しており、戦車兵が自ら道を切り開かなければならなかった。ベルリンの狭い路地を一度に通れる戦車は2両が限界だったため、先頭の戦車が砲撃によって敵を吹き飛ばし、2両目を通した。先頭車両が撃破されても続く車両が役割を代わり、1メートルずつ進みながらベルリンの制圧を進めていった。 機銃手や工兵の数が足りなくなると、テムニクは隊員を集めて全員に機銃を装備させ、自ら突撃部隊(ロシア語版)を率いて戦場に躍り出た。丸一時間、旅団司令官も一般の機銃手のように行動し、1つの街区から敵を掃討することに成功した。しかし、近くで地雷が爆発したため、テムニクも腹部に重傷を負い、4月29日にその傷が原因で死亡している。 4月30日の夜、旅団はクルドゥルシュトラーセの残党勢力を掃討し、ベルリン動物園駅へ向けて進軍を開始した。このときの戦闘では、ネチタイロの指揮の下、ベリャーエフ、コズロフ、プージ、アレクセーエフの戦車中隊が活躍を見せ、ペトルークやセンチェンコ、バリュク、ジューコフなど多くの戦車兵が勇敢に戦った。 ベルリンでの戦いが、大戦中の旅団の最後の勝利となったが、その代償は極めて大きかった。これまで多くの戦闘で活躍してきた戦車指揮官のイヴァン・ガポン親衛中尉はマックスドルフで戦死し、第1戦車大隊副中隊長のイヴァン・フョードロフ親衛少尉は目前に迫った戦勝の日を迎えることはできなかった。ベルリン攻勢作戦では旅団の戦車の9割を喪失したため、旅団に残った6両の戦車は、5月1日に第20親衛自動車化旅団へと移管された。 テンペルホーフ飛行場(1945年) ベルリン郊外でパンツァーシュレックを手に身を潜める国民突撃隊員(1945年4月下旬)
※この「ドイツ本国への進軍」の解説は、「第1親衛戦車旅団」の解説の一部です。
「ドイツ本国への進軍」を含む「第1親衛戦車旅団」の記事については、「第1親衛戦車旅団」の概要を参照ください。
- ドイツ本国への進軍のページへのリンク