ナチ党幹部
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「オットー・ディートリヒ」の記事における「ナチ党幹部」の解説
1929年4月1日にナチ党に入党した(党員番号126,727)。入党後すぐにエッセンに戻り、新たに刊行されたナショナル・ツァイトゥング(ドイツ語版)の副編集長になる。1931年8月1日にナチ党全国報道局長(Reichspressechef)、ナチ党全国組織部の副部長及びナチ党全国指導部の報道事務局長に就任した。1932年9月12日よりナチ党全国報道事務局長(Reichspressestelle der NSDAP)も務めている。1932年12月24日には親衛隊に入隊した(隊員番号101,349)。1933年6月2日にナチ党新聞全国指導者に就任し、4月30日にドイツ報道協会(ドイツ語版)会長に全会一致で選出された。1933年12月に全国新聞院副総裁に就任し、1936年3月29日からは国会議員も務めている。 ナチ党のプロパガンダ報道に非凡な才能を発揮した。1934年、アドルフ・ヒトラーがエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部を粛清した長いナイフの夜の際には「総統は総統を殺害しようとした党員たちのモラルの低下にショックを受けられた」と報道した。ルドルフ・ヘスが単独飛行した際には「敵領での事故死」と報道している。東部戦線で赤軍に押し返され始めても「ソ連は崩壊した」と報道し続けた。 ディートリヒの職務は、宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスや党出版全国指導者のマックス・アマンと被る部分が多く、摩擦もしばしばあったという。1937年にゲッベルスとの間で妥協が成立し、ディートリヒは1938年1月15日には宣伝省次官及び第4部(出版)部長に就任し、政府報道局長及び全国新聞院(ドイツ語版)総裁にも任命される。しかし、その後も対立は続き、ゲッベルスは東部戦線の報道に対して、自分の報道と食い違う内容を報道するディートリヒに怒り、「ヒトラーはディートリヒを解任するべきだ」と日記に記している。 1945年3月30日、ヒトラーにより全ての公職及び党内役職の地位を解任された。
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ナチ党幹部
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「ハンス・ハインリヒ・ラマース」の記事における「ナチ党幹部」の解説
1932年3月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党(党員番号1,010,355)。すぐさま党の幹部となり、9月24日にプロイセン州で開催された党集会にヨーゼフ・ゲッベルスと共に出席し、党幹部としての活動を開始する。1933年のナチ党の権力掌握後には首相官房長官・国務長官の職責が与えられた。同時に内相ヴィルヘルム・フリックの推薦で、全政府機関の主席法律顧問に任命された。 1937年からヒトラー内閣の無任所大臣に就任し、1939年11月30日には国防閣僚会議(ドイツ語版)のメンバーとなった。同時期にT4作戦にも関与している。ラマースはこうした立場に基づき、全政府機関から連絡と諮問を受けると同時に、全ての政治文書をヒトラーに届く前に検閲することが出来、政権内で影響力を持った。官僚たちにとって、彼はヒトラーに代わりドイツの権威を代表する存在として映り、歴史家のマルティン・キチンは、これらの点からラマースを「ナチス・ドイツにおける最重要人物の一人」と述べている。 1933年9月29日には親衛隊(SS)の名誉指導者ともなり、親衛隊上級大佐の階級が与えられた。1935年4月20日に親衛隊少将、1938年1月30日に親衛隊中将、1940年4月20日に親衛隊大将と昇進している。
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ナチ党幹部
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「コンスタンティン・ヒールル」の記事における「ナチ党幹部」の解説
1929年にナチ党に入党(党員番号126,752)、友人のグレゴール・シュトラッサーによって第二組織全国指導部長に任命され、1932年まで務めた。1930年ドイツ国会選挙で当選し、国会議員となり、1931年6月5日に国家社会主義義勇勤労奉仕団(NSAD)総裁に就任する。 ナチ党の権力掌握後、アドルフ・ヒトラーは労働組織を掌握するため、ヒールルを1933年3月に労働省次官に任命する。しかし、労働大臣フランツ・ゼルテの抵抗に遭い、1934年7月には労働問題国家弁務官に転任した。1935年6月6日に国家勤労奉仕法によって、国家社会主義義勇勤労奉仕団は国家組織となり、国家労働奉仕団に改称された。総裁であるヒールルは全国労働指導者に任命され、1936年には労働全国指導者に就任し党最高指導部の一員となり、黄金ナチ党員バッジを授与された。1943年8月23日には無任所大臣に任命されている。 戦時中の国家労働奉仕団は、損傷を受けた道路の修復、滑走路の構築及び修復、前線部隊への食料や弾薬の供給などの作業に従事し、後期には軍事訓練やドイツ国防軍への徴用も行われた。末期に設立された国民突撃隊に国家労働奉仕団が吸収される可能性があったものの、ヒールルは自身の権力維持のためにこれを拒否した。1945年2月24日にドイツ勲章を授与をされている。 戦後、非ナチ化裁判により有罪判決を受け、労働強制収容所で5年過ごした。1955年9月23日にハイデルベルクで死去。
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