ナチ党政権期
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「ナチ党の権力掌握」、「全権委任法」、および「ライヒスコンコルダート」も参照 中央党の一部には親ナチズム的傾向をもつ人々も存在したが、教会を敵視していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と中央党の関係は良くなかった。しかしボルシェヴィズムへの敵視と、「裏切者」パーペン内閣への敵対という点では両者の利害は一致していた。国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクは、「ヒトラーからカースまで」の右派連合を構想しているが、結局連立は成立しなかった。1933年にヒトラー内閣が成立し、ドイツの治安権力がナチ党によって握られた後、カースと中央党は全権委任法への賛成を迫られた。中央党幹部会は拒否しても無駄であると考える者が多数となった。党内で予備投票が行われたが、反対者は12名ほどであり、多数決原理によって党員全員が全権委任法賛成投票を行うこととなった。全権委任法が第5条で時限立法であると規定していた事も政権側の譲歩の表れと見て中道政党として賛成に回るべきだとの考えを後押しした。しかし結果的にはこれによりヒトラー独裁が決定的となった。 全権委任法成立後まもなく、パーペンとカースが連れだってバチカンを訪れ、ドイツとバチカンの政教条約締結交渉を行った(ライヒスコンコルダート)。中央党はカースを裏切者として非難し、5月6日にブリューニングを党首としたが党内の混乱は収まらず、7月5日に党は自主解党した。これはナチス側も察知していない突然の事態であった。ライヒスコンコルダートには聖職者が政党活動を行わないという条項が存在し、聖職者を多く党員としていた中央党にとっては、党の成立基盤を根底から否定するものとなった。ナチス政権期において旧中央党員の多くは沈黙し、またはブリューニングのように亡命を余儀なくされたが、ベルンハルト・レッターハウス(ドイツ語版)やヤーコブ・カイザー(ドイツ語版)のように反ナチ運動に参加する者もいた。
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