ナチス政権期
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「エーリッヒ・フォン・マンシュタイン」の記事における「ナチス政権期」の解説
1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命される。 この時マンシュタインはコルベルクで大隊長を務めていたが、基本的には好感をもってヒトラー新内閣を迎えたようである。ヒトラーのヴェルサイユ条約打破の主張はマンシュタインら軍人にとっては全く正当な主張に聞こえ、またマンシュタインは国会の委員会に何度か陪席したことがあったが、そこで行われる政党間の罵り合いを見て民主主義というものに辟易し、独裁的指導者を待望していたため、ヒトラーの独裁的傾向にも共感を持ったのであった。したがってマンシュタインは初めのうちは彼の信奉するプロイセン保守主義とナチスの国家社会主義の間に大きな差は無いと思っていた。 マンシュタインが最初にナチスと考えを異にしたのは1934年2月28日に国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将が「アーリア条項」を陸軍に導入した時だった。マンシュタインは兵務局局長(参謀総長)ルートヴィヒ・ベック中将に建白書をしたためてアーリア条項導入に対して抗議を行った(ただこの建白書はすでに入隊しているユダヤ人を軍から排除することについて反対した物であり、今後ユダヤ人の新規入隊を禁止することについては何も触れていない)。ブロンベルクはこの建白書に激怒してマンシュタインを処分しようとしたが、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ砲兵大将の仲裁でなんとか処分を免れたという。 1934年6月末から7月初めにかけて行われた粛清「長いナイフの夜」においてクルト・フォン・シュライヒャー名誉階級歩兵大将とフェルディナント・フォン・ブレドウ少将が殺害された際にもナチスのやり口に反発し、上官ベックを動かしてブロンベルクに抗議をしようという試みに参加した。 マンシュタインはベック参謀総長に近い立場であり、ナチ党とは距離を保っていたが、それでも軍内では昇進を重ねた。1933年12月には大佐に昇進し、1934年2月には第3師団(第3軍管区)司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン大将の参謀長に就任した。ついで1935年7月には参謀本部の作戦部部長に就任した。1936年10月には少将に昇進。そして1936年10月6日に参謀本部第1部長(事実上の参謀次長)に就任し、ベック参謀総長を支えた。いずれはベックの後継として参謀総長になることが予定された。またこの頃、歩兵支援のために突撃砲の開発を提案している。突撃砲は第二次世界大戦でドイツが開発した兵器としては最も成功した安価な兵器であったとされている。 しかしブロンベルク=フリッチュ罷免事件後の粛清人事により、1938年4月にシレジアのレグニツァに駐留する第18歩兵師団師団長職に左遷された。国防軍最高司令部総長に就任したカイテル歩兵大将がライバルのマンシュタインを嫌って田舎に追い払おうとしたためであるという。マンシュタインは後に「参謀本部将校ならば誰もが願う最高の名誉ある地位。モルトケが、シュリーフェンが、ベックが務めた地位を継承するという夢が私から葬り去られてしまった」とそのときの悔しさを述べている。 参謀総長ベックはヒトラーの戦争を招きかねない外交に反発して国防軍首脳部うちそろっての集団辞職を計画したが、他の軍高官は誰もこれに同意しなかった。軍人は常に政府に忠実でなければならないと考えていたマンシュタインも同意せず、参謀総長職にとどまるようベックの説得にあたったが、結局ベックは一人で辞職した。
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