ナチス政権下での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 17:40 UTC 版)
「セルゲイ・タボリツキー」の記事における「ナチス政権下での活動」の解説
1936年5月からタボリツキーは、ナチスが創設した在ドイツロシア難民局(Vertrauensstelle für russische Flüchtlinge in Deutschland)のヴァシリー・ビスクプスキー将軍の代理を務めていた。タボリツキーの任務はロシア移民に関する書類の管理と政治的監視であった。独ソ戦の勃発後、彼はロシア移民から国防軍の翻訳者を募集する責任者となった。タボリツキーの活動はゲシュタポと密接に連絡を取りながら行われた。グレブ・ラーはタボリツキーについて「乾燥した、痩せた、尖った、やや衰えたタイプで、花は咲かず、衰えつつある」と述べている。 1937年4月、タボリツキーは天文学者カール・フリードリヒ・クノーレの孫娘であるエリザベート・フォン・クノーレと結婚した。数々の請願(ゲッペルス名義も含む)と拒否を経て、ドイツ国籍を取得(1938年)、NSDAPに入党(1942年、申請日1940年から遡及適用)した。母親のユダヤ人出自を隠してドイツ系とし、架空の父親「ウラジーミル・ヴァシリエヴィチ・タボリツキー」をロシア系貴族とした。高貴な出自を装い、「フォン」の付くドイツ語の姓(フォン・タボリツキー)を使用した。そして、ユダヤ民主主義の指導者」で「ドイツ嫌い」のミリョーコフを暗殺未遂し、刑事罰を受けたのは、新しい祖国への功績だと主張した。 また、ドイツで初めて『シオンの議定書』を知らしめたことを強調し、ユダヤ人や「左翼」から受けた迫害を誇りにしていた。 1939年、彼はロシアの青年全国組織(NORM)を創設した。この組織はSSの直轄であった。それはドイツのヒトラーユーゲント組織と似ており、その下部組織であった。 戦争末期、タボリツキーはベルリンから逃亡し、後にリンブルフ・アン・デア・ラーンに住んだ。その後も時折、ブラジルの君主制雑誌『ウラジミールスキー・ヴェストニク』に掲載された。1980年10月16日、タボリツキーは同地で死去した。
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