ナチス政権と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 01:18 UTC 版)
「エーリッヒ・イトル・カーン」の記事における「ナチス政権と亡命」の解説
ナチスの政権奪取を逃れ、ひとまずはフランスのパリに亡命。ここでルネ・レイボヴィッツと個人的に親しくなり、カーンが所持していたシェーンベルク他の12音技法の作曲家の楽譜をレイボヴィッツに1937-38年頃見せたところ、レイボヴィッツはこの作曲家のグループの技法「十二音技法」を個人的に独力でマスター。1939年に「ピアノソナタ作品1, エーリッヒ・イトル・カーンへ捧ぐ」と献辞を添えて処女作を脱稿したのがレイボヴィッツの作曲家転身のきっかけとなった。レイボヴィッツの指揮者デビューから1940年代の12音技法啓蒙への動きを知る唯一の人物であった。しかし、カーンはフランスの体制をも否定しアメリカに再度亡命。1930年ごろシェーンベルクの作品を世界初演したという情報もあるようだが誤りである。 アメリカに亡命後も室内楽奏者ピアニストやラルフ・カークパトリックのためのハープシコードの作品の上演など活動を本格化させていたが、1956年に急逝。これでレイボヴィッツの作曲への道を知る人物はすべてヨーロッパから消えてしまい、レイボヴィッツの前史はラルース音楽事典に書かれた自称プロフィールが独り歩きしてしまう結果となり、後世の研究者を悩ませている。Kahn研究が本格化したのはKahnの自筆譜がドイツに戻ってきてからのことになる。 作品集がCd化されたのも遅れた。現在は「レイボヴィッツに十二音技法を教えた唯一の人物」として再評価される動きがある。
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