ナチス政権時代
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「ナチス政権時代」の解説
1929年の世界金融恐慌によって失業率が急増し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が伸張して1930年9月の選挙では107議席を獲得、第二政党となった。ハイデッガーとナチスの関わりは政権獲得以前にさかのぼる。妻エルフリーデは早くからヒトラー支持者であった。哲学者エルンスト・カッシーラー夫人トーニの証言では、1929年にはハイデッガーの反ユダヤ主義的傾向はよく知られていた。1930年ごろからは、初期ナチズムに影響を与えたといわれるエルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』の要約「総動員」を助手ヴェルナー・ブロックと研究した。1930年ブレーメンでの「真理の本質について」講演後の討論で「ひとは他者の身になってみることができるか」という問いについて荘子秋水篇第17の「魚の喜び」説話を読んで聞かせ、「自己移入」から出発しては「共存在Mitsein」は理解できないということを示そうとした。1930年夏学期、「人間的自由の本質について」を講義、カントの自由論を扱う。1930年、ベルリン大学に招聘される。この招聘は「大学の哲学者に授与される最大の名誉」(ヤスパース)であったが、ハイデッガーは断った。 1930年7月11日から3日間開催された「バーデン郷土の日」の祭典では、のちのベルリン大学総長で優生学者のオイゲン・フィッシャー、エルンスト・クリーク、作家レオポルド・ツィーグラーといったナチの同調者や党員とともに「学術芸術経済分野のバーデン賢人会議」で「真理の本質について」講演を行った。カールスルーエ新聞はハイデッガーが「抽象の領域から具体的な状況のただ中へ、真理性の根底としての土着性へ向かっていった飛躍は決定的なものであった」と報告した。この講演「真理の本質について」は同年、ブレーメン、マールブルク、フライブルク、1932年にはドレスデンでも同タイトルで講演され、1943年に出版された。同題講義ではプラトンの洞窟の比喩について、真理はギリシア語でアレーテイアというが、これはア・レーテイア、非隠蔽性、隠されていないことを意味するとし、真理とは「人間を越えて立つところのものである」「本来的に自由であることは、暗さからの解放者であることである」「自由であること、解放者であることは、存在にふさわしく、われわれにぞくする者たちの歴史において共に行動することである」「根源的な闘争(論争などというわけではない)が意味しているのは、自分に最初に敵と反対者さえも作り出し、そしてこれをおのれの最も鋭い反対者にする闘争である」とし、歴史における真理実現のための行動として根源的な闘争が呼び求められるし、ニーチェはヒューマニズム、キリスト教、啓蒙主義に反対したと述べた。1930年10月26日にボイロン修道院で「時間についての聖アウグスティヌスの見解 『告白』第11巻」を講演した。1930年から1931年にかけての冬学期に「ヘーゲル『精神現象学』」講義。 この頃、ベルリン大学教授にハイデッガー、ニコライ・ハルトマン、エルンスト・カッシーラーが候補となり選考がなされた。ハインリッヒ・フォン・フィッカーら選考会ではカッシーラーが候補とされたが、文部大臣アードルフ・グリメはフッサールの弟子でもありハイデッガーを強く推薦した。しかしハイデッガーは1930年5月にグリメにドイツの精神活動を規定する重要な地位であるベルリン大学教授に就くには自分はふさわしい形で責務を果たせないとして断り、1931年1月、ハルトマンが招聘された。 1931年夏学期、「アリストテレス『形而上学9巻1-3』力の本質と現実性について」講義。1931年ごろにはトートナウベルクの山荘に住むハイデッガー家の全員がナチズムに「改宗」していたというヘルマン・メルヘンの証言もある。1931年10月にはボイロン修道院に滞在し、エリーザベト・ブロッホマンへ手紙でこのように書いている。 金曜日から、私はここのいつもの小屋にいて、再び修道士たちの閉ざされた静謐な生活にひたっています。本当でしたら、修道士服に身をつつみたいくらいなのです。普通の市民のかっこうでは修道院のなかを歩くたびに違和感を感じるからです。…長い一日のほとんどは(朝四時にはもう一日が始まるのですから)仕事にあてています。…静かな谷間は輝かしい秋の黄金色で一杯です、岩波が青空にくっきりと浮かび上がっています。 — エリーザベト・ブロッホマンへの1931年10月11日付手紙 1931年から1932年にかけての冬学期に「真理の本質について:プラトンの洞窟の比喩とテアイテトス」講義 1932年夏学期、「西欧哲学の原初 アナクシマンドロスとパルメニデス」講義
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ナチス政権時代
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「エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)」の記事における「ナチス政権時代」の解説
1934年中将に昇進。1936年、騎兵大将に昇進し、ブレスラウの第8軍団司令官に就任。1938年2月4日、元陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将などと共に軍を退役した。クライストは退役の理由を、ルター派教会に属する自分としては「教会その他の宗教問題に対するナチ党の姿勢に賛同できなかったこと」と「宗教を擁護しすぎたこと」が原因であると語り、自身が発令した年少兵に対する礼拝への参加命令や、それを撤回せよという1937年における国防軍最高司令部 (OKW) からの指令を拒否した事を例に挙げている。他方OKW長官ヴィルヘルム・カイテルについては、「もちろんカイテルの責任ではない。彼は党から圧力をかけられてそう命じたのだ」と擁護している。
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