司令官に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:18 UTC 版)
「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の記事における「司令官に就任」の解説
1702年、前年の1701年にハプスブルク家が断絶したスペインの王位にフランスのルイ14世が孫のフェリペ5世を送り込んだことにオーストリアのハプスブルク家が反対して起こったスペイン継承戦争が、マールバラの名声を歴史に残すことになった。フランスとスペインが将来同君連合になって強大化する可能性を怖れたウィリアム3世のオランダ及びイングランドはオーストリアに荷担することを決め、フランスと戦端を開いた。マールバラは戦争勃発前にウィリアム3世と共にオランダに渡り、ハーグでオーストリア・オランダとの大同盟締結に尽力した。 戦争を開始した直後にウィリアム3世が死去すると、マールバラの妻サラの友人でもあるウィリアム3世の義妹(メアリー2世の妹)アンが女王として即位した。戦争は新女王のもとで遂行されることになり、妻の縁で女王の信任を受けることになったマールバラはガーター勲爵士に叙勲、大将軍とボード・オブ・オードナンス長官(兵站部総監)に任命されオランダへ渡ったが、多国籍軍となった同盟軍の総司令官を誰にするかで各国は調整に難航した。オランダはボイン川の戦いやウィリアマイト戦争で勇名をはせたアスローン伯ゴダード・ドゥ・ギンケルを推挙、アン女王も当初は最高司令官に夫のカンバーランド公ジョージを勧めていたが、最終的にはマールバラを「イングランド王国の陸軍最高司令官(Generallissimo of all Her Land Forces)」にした上で同盟軍の最高総司令官に任命した。また、マールバラの友人であるトーリー党のゴドルフィン伯シドニー・ゴドルフィンが大蔵卿に就任し、党派にとらわれない中道派として軍を率いるマールバラと協力して戦争を推進することになった。 大陸に上陸したマールバラは、ナイメーヘンでオランダ軍と合流し、スペイン領ネーデルラントのムーズ川流域のフランス軍防衛線を脅かした。しかしオランダはマールバラに対して政府委員を2名派遣し、軍事作戦に対して事前許可制をするように要請したが、彼らはあくまで軍事的専門家ではなく連邦議会選出の議員であったため、軍事作戦に疎く初戦において決定的な勝利を逃す要因となっていた。しかしながら、政府委員をマールバラ及び本国のゴドルフィン、オランダのアントニー・ヘインシウスらが説得したことで中盤は比較的順調に進み、ブーフレール率いるフランス軍を翻弄、10月23日にはムーズ川流域の主邑リエージュを占領することに成功する。マールバラはこの功績により公爵に陞爵し、マールバラ公に叙せられた。
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