司令官の交代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:21 UTC 版)
「第二次エチオピア戦争」の記事における「司令官の交代」の解説
12月中旬、用心深い性格で進軍が捗らないボーノ将軍は更迭され、新たにピエトロ・バドリオが総司令官に就任した。部隊の増派を得たバドリオは早期占領を目指すべく積極的な進軍を続け、防御戦で一々立ち止まる手間を惜しんで毒ガスによる鎮圧すら用いた。毒ガス攻撃によって国際社会から更なる非難を呼び込むことになったが、『ムッソリーニの毒ガス』でその効果を検証したアンジェロ・デル・ボカは、同戦争における毒ガス使用にさしたる軍事的効果はなく、仮にこれを用いなくとも(通常兵器のみでも)代わらぬ勝利を得られたであろうと述べている。むしろ効果を挙げたのはグラツィアーニが行った戦略爆撃の方で、翌1936年3月29日、グラツィアーニ麾下の空軍部隊がエチオピア東部の都市ハラールを焼夷弾による爆撃で壊滅させている。またエチオピア軍はハーグ陸戦条約で軍事利用が禁止されたダムダム弾を使用しており、エチオピア側の戦争犯罪に対する報復という側面が強かった。 3月31日、最後の主要な戦闘であるメイチュウの戦いでイタリア陸軍はエチオピア帝国親衛隊と会敵、この戦いはイタリア軍の勝利に終わった。帝国親衛隊は壊滅し、近代的な精鋭部隊を喪失したハイレ・セラシエは5月2日に国外へ脱出して後にイギリスに亡命した。5月5日、イタリア軍が首都アディスアベバを占領して戦争は終結したが、その後もエチオピア貴族を中心とした抵抗活動は長く続いた。
※この「司令官の交代」の解説は、「第二次エチオピア戦争」の解説の一部です。
「司令官の交代」を含む「第二次エチオピア戦争」の記事については、「第二次エチオピア戦争」の概要を参照ください。
- 司令官の交代のページへのリンク