呉征討の過程
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武帝はかねてより呉を滅ぼす計画を抱いていたが、同じことを考えていたのは羊祜・張華・杜預のみであった。病で引退する羊祜は、後任として杜預を推挙した。咸寧4年(278年)冬に羊祜が病没すると、杜預は鎮南将軍・都督荊州諸軍事となり、羊祜の後任として呉の抑えを務める。着任した杜預は着々と軍備を調え、精鋭の軍団を作り上げた。司令官の交代という隙を突いて、呉の西陵督張政が来襲したが、杜預によって大敗を喫した。張政は要害の地にありながら備えも無しに攻めて敗北したことを恥じ、このことを呉帝孫晧に報告しなかった。杜預が離間策として捕虜を返したところ、果たして孫晧は張政を召還し、後任に武昌の監であった劉憲を任じた。このため、後に晋の大軍が至ると呉の国境は簡単に動揺し防衛線は全く機能しなかった。 この頃、武帝は年明けから呉を攻めることを考えていたが、杜預は次のように奏上した。 「 呉は攻め上ってくる気配がありません。つまり、計略に窮し、力も不足しているということです。この期を逃せば、無駄に歳月を重ねることになります。後回しにした挙句、いざ征討という際に時と人を得ない状況に陥る方が、私には恐ろしく思えます。今、国内は一つにまとまって安定しており、負ける要素はありません。あとは、陛下のお心次第なのです」。また、その月の中旬、再び上奏した。「羊祜の意見と他の廷臣達の意見が合わず、異論が多く出されたのは、陛下が羊祜と白昼に論ぜず、密かに計略を共にしておられたからです。この(呉征伐という)挙は、十中八九、我が方に利があります。朝臣たちは、陛下の恩愛を恃んで(呉という敵を放置しておく)後難を考慮しておらず、故に自分たちと異なる意見を軽んじるのです。秋よりこの方、討呉の気運は頗る高まっております。この状態で討伐を中止すれば、かえって孫晧は晋の勢いを恐れ、計略を巡らせるかもしれません。遷都の上で江南の諸城を修復させ、人を奥地に移住させてしまえば、(晋軍は)城を攻めることも出来ず、略取すべき場所もなくなります。そうなってからでは、討呉の計略は及ばなくなってしまいます。 」 この上奏が届いたとき、武帝は張華と碁を打っていたが、その書を読んだ張華は言った。「今、国はよく治まっており、陛下が命令なされば一に伝わります。孫晧は驕慢にして残虐であり、賢臣能吏を殺しておりますから、呉を討てば労せずして平定できましょう」そこで、武帝は討伐を許可した。 太康元年(280年)正月、杜預は総司令官として、胡奮らと共に遂に呉討伐に乗り出した。本隊は江陵へ進軍し、また参軍たちを江西へ派遣して、その優れた戦略でもって周辺の城邑を次々に制圧していった。また、牙門将の周旨らに命じて楽郷城を急襲させ、旗指物を多く張り、巴山で盛大に篝火を焚かせた。このため呉軍の士気は大きく挫かれ、呉の都督であった孫歆は、督将の伍延に宛てた手紙の中で「北来の諸軍、乃ち江を飛渡するなり」と記すほどであった。孫歆は出撃したものの、王濬によって大敗を喫して帰還した。このとき、周旨の軍勢は呉軍に紛れ込んで楽郷城へ侵入し、そのまま孫歆の幕舎を襲い、生捕りにした。一方、江陵へ進軍した杜預は、伍延の佯降を見抜いて、これを打ち破っていた。こうして長江上流は平定され、沅水・湘水以南の広州や交州に至るまで、呉の州郡は皆帰属を願い出た。呉の都督や監軍で、生け捕られたり斬られた者は14人、牙門や郡太守では120人あまりに及んだ。江北に軍を駐屯させ、南郡を中心として各地に長吏を置いたため、荊州では治安が保たれた。 建業の間近に迫った時、軍議では「気候は温暖になり、長雨の降る時期でもありますから、疫病が流行るでしょう。冬を待って、再び攻め入るべきです」との意見が出された。杜預は答えた。「楽毅は済水の一戦で燕を斉に比肩させた。今、兵威は振興し、譬えるなら竹を割くようなものだ(譬如破竹、譬えるに破竹の如し)。数節(=15日を一節と数えることと、竹の節をかける)も刀を入れれば、後は手を使うだけでよい。」こうして進軍は継続され、呉帝の孫晧は間もなく降伏した。この逸話がのちに、破竹之勢つまり『破竹の勢い』という故事成語となった。 武功の名高い杜預だが、彼自身は馬に乗ることができず、弓射も不得意であった。そのため、軍事を任せられると、居ながらにして将卒を率いたという。 なお『晋書』には次のような話を載せる。江陵の守備側が、杜預の頸に瘤があったことから、犬の頸に瘤に見立てた瓢を括り付けたり、木の瘤を「杜預頸」と称してからかった。杜預は城を攻め落とすと、その住民を皆殺しにしたという。 唐の史館が選んだ中国六十四名将の一人に選ばれている(武廟六十四将)。
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