ナチス政権下時代
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ナチス政権下時代、ナチ党大会が1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われ、その模様はレニ・リーフェンシュタールにより映画化された。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法(『ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律』)が定められ、一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。 第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。同年4月の4日間に渡る地上決戦(ニュルンベルクの戦い)で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。一時はこの破壊された街を放棄して、他の場所に新しい街を創ることが真剣に検討されたほどの被害状況であった。同大戦期、ナチスにとってその精神性を保持する街として「神聖ローマ帝國宝物展」が開催された。今日コンサート会場として使われる「聖カテリーナ教会」が会場となった。そうした宝物の保管庫がObere Schmiedgasse(オーベレ・シュミートガッセ、上鍛冶屋小路)52番地の地下にあった。Kunstbunker(クンストブンカー、芸術品地下保管庫)は今でも保存、公開され訪れる歴史ファンは多い。
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ナチス政権下時代
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「ヴィルヘルム・カイテル」の記事における「ナチス政権下時代」の解説
カイテルは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの突撃隊(SA)をいまいましくさえ思い、アドルフ・ヒトラーを「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた。 しかし1933年1月30日に自由選挙の末にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月にはバート・ライヘンヒルで開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった。ただしナチ党には最後まで入党していない。1933年10月に編成部長の職を離職し、1934年4月に少将に進級するとともにポツダムの師団の師団長代理となった。1934年10月にはブレーメンに派遣され第22師団の編成にあたった。 ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄して再軍備を始めた年にあたる1935年の10月1日には国防軍部 (Wehrmachtamt)の部長に就任した。国防軍部は国土防衛・対外防諜・軍需経済の各課を保有する国防省の最重要部署であった。カイテルのメモによるとこの人事は陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュのブロンベルクへの推挙によるという。以降ヒトラーとブロンベルクの下で急速に進級する。1936年1月には中将に進級し、1937年には砲兵大将となった。ブロンベルクとカイテルはゲシュタポとも連携して「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめた。 1938年1月、カイテルの息子カール・ハインツ・カイテルとブロンベルクの娘ドロテー・フォン・ブロンベルクが結婚することとなったが、2月にはヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュを解任した(ブロンベルク罷免事件)。さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。このために国防軍最高司令部(OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であった。また併せて国防軍最高司令部の陸軍への支配力を高める意味からカイテルの弟であるボーデウィン・カイテル少将が陸軍人事部長に任命されている。 1938年11月には上級大将に進級している。ドイツ国防軍に国家社会主義思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、1939年1月27日の旧ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の誕生日記念式典にも軍部は一切参加してはならないと厳命した。1939年4月にはナチ党員でないにもかかわらず、チェコスロバキア併合の際の進軍の褒賞として黄金ナチ党員バッジを授与された。 カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたり、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた。ヒトラーは後年カイテルについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防軍の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたという。 当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、カイテルの軍事センスのなさを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。ただし実務能力は高かったため、統制の取れにくかった国防軍を短期間でひとつにまとめるという功績を残している。
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