突撃砲の開発
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ドイツ帝国陸軍は、西部戦線での最後の攻勢である1918年春季攻勢で、敵戦線を突破し64kmも進出した。この時ドイツ軍は初めて自国開発の戦車であるA7Vも使用したが、突進する歩兵部隊に追随して火力支援にあたったのは、重装甲重武装だが鈍足のA7Vよりも、砲兵部隊により馬や人力で牽引されていた7.7cm FK 96 nAや7.7cm FK 16などの軽野砲であった。 敗戦後、ヴァイマル共和政ドイツはこうした経験から1927年に突撃砲の原点と呼べる自走砲を創りだす。これは1918年春季攻勢で活躍した27口径7.7cm野砲(7.7cm FK 96 nA)を、ハノマーグ社製の民生用の装軌式トラクター、WD Z 50(WD 50 とも)にオープントップ式に搭載したものである。この車両は“WD シュレッパー”(WD Schlepper)と通称された。 WD シュレッパーはトラクターに単純に砲を搭載しただけのもので、簡単な防盾はあったものの、砲兵を守る装甲板には囲まれておらず、銃砲弾飛び交う前線で扱うのに適しているとは言い難かった。そのため、実用試験の過程で次第に防盾が大型化され、更に側面や天面に装甲が追加され、ついには完全な密閉戦闘室を持つ設計とされるに至った。これがドイツにおいて開発された“突撃砲”の祖である。このような開発経緯から、運用兵科は戦車部隊ではなく砲兵部隊となっている。 1936年ドイツ参謀本部が突撃砲の概念を決定する。戦車とは異なる突撃砲という兵器の概念には、参謀本部作戦課長であったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン大佐(当時)が頭の中に描いていた考えを基に固められていた。 戦車部隊の戦果は歩兵部隊の戦力強化により拡大され、それには後方に展開する重砲群とは異なる、従来の歩兵随伴砲を発展させた兵器が求められている。 歩兵の装備では攻撃に困難を伴う、敵の陣地や戦車など危険で強固な障害物を迅速に排除して、歩兵の攻撃を前進させる。 歩兵の求める次元で戦闘するには装甲化されていなければならない。 敵砲兵の目標になる前に迅速に退避できる機動力が必要である。 戦車のように移動中に火砲の照準を変えつつ状況に応じて射撃しながら敵戦線を突破するという役割は期待されていなかったため、大口径砲の搭載に制約を受ける回転砲塔の採用は必要なかった。そして同年に出された開発命令によりIII号戦車をベースとした無砲塔構造の車両に短砲身75mm砲(7.5cm StuK37 L/24)を用いた歩兵支援用の自走砲が開発された。 無砲塔構造は、ベースのIII号戦車より大口径砲が搭載可能になった事以外に、車両高が低くなったので敵から発見されにくく、かつ攻撃されても被弾しにくくなった。その技術的細目を直接指導したのは参謀本部技術課にいたヴァルター・モーデル大佐(当時)だった。これが突撃砲(III号突撃砲)として採用された。 なお1930年代後半、ドイツ以外の列強では、このような歩兵支援目的では回転砲塔構造の歩兵戦車を開発していた。 日本の九七式中戦車やソビエト連邦のT-26は、薄い装甲により機動力を確保し、当時の戦車としては比較的大口径の搭載砲で火力を重視した。 イギリスのマチルダI歩兵戦車は、防御力を重視して厚い装甲を施したため、機動力が犠牲になっており、武装も重機関銃のみだった。 フランスのルノー R35は、機動力、火力、防御力の中庸を取った。 機動力、火力、防御力のいずれかに重点を置くかは各国の用兵思想により違っていたが、砲塔を廃した自走砲形式ではない、という点では共通している。
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