ナチ党政権掌握後
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「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事における「ナチ党政権掌握後」の解説
1933年1月30日にヒトラー内閣が発足。多くの党機関は当面ミュンヘンに留まっていたが、シーラッハの全国青少年指導部はただちにベルリンの帝国首相府へ移されている。1933年4月5日にはユーゲント団員50名を使って「ドイツ青少年連合全国委員会」(Reichsausschuß der deutschen Jugendverbände)本部を占拠した。1933年6月17日にはドイツ国青少年指導者に任じられ、「ナチ党全国青少年指導者兼ドイツ国青少年指導者」となった。 ナチ党の「一元化」政策の下、ヒトラーユーゲント以外のドイツの様々な青少年組織を次々と統合、あるいは解散させ、ドイツ青少年のヒトラーユーゲントへの一元化を目指した。特に共産主義者とユダヤ人の青少年組織は徹底的に滅ぼされた。またハインリヒ・ヒムラーら党の有力者からも後援を受けていた「大ドイツ連盟」のようなヒトラーと連立関係にあった保守系青少年団体も解散に追い込まれている。プロテスタント系青少年組織もすぐに片付いた。ルター派プロテスタント全国教会総監督ルートヴィヒ・ミュラー(de:Ludwig Müller (Theologe))とシーラッハの協定により、1933年末にはヒトラーユーゲントに引き渡されている。一方、カトリック系の青少年組織は、1933年7月20日にヒトラーとローマ教皇庁の間で結ばれた「政教協約(コンコルダート)」もあって、手を出すのは難しい存在だった。カトリック系青年団体は、1935年のザールラント返還後ぐらいから理由をつけて少しずつ解散に追い込まれ、1939年になってようやく全て解散された。 ナチ党の政権掌握以降、ヒトラーユーゲントへの加入者は激増した。1933年末には10歳から18歳までの青少年230万人がヒトラーユーゲントに加盟している。これはヒトラーが政権掌握した直後(ユーゲント団員数はせいぜい11万人ほどだった)に比べると20倍の団員増加である。そして「ヒトラーユーゲント法」導入後の1936年末には600万人以上の団員数となった。 シーラッハは全てのドイツの青少年を監督下に置き、さらにその教育を掌握しようと奔走した。彼はそのために「ヒトラーユーゲント法」を起草した。教育相ベルンハルト・ルストは「学校教育がすみに追いやられてしまう」としてこれに猛反対したが、1936年12月1日にヒトラーは「ヒトラーユーゲント法」に署名して公布した。この法律により、それまでナチ党の私的な組織だったヒトラーユーゲントは公式に国家機関となり、それ以外の青少年組織は禁止された。そして10歳から18歳までの青少年が強制加入させられ、ヒトラーユーゲントは、第三帝国の青少年組織の総称となった。ただし実際にヒトラーユーゲントへの加入が義務化されたのは1939年3月25日からだった。 シーラッハが教育への進出を強める中、他の党幹部、特に教育相ルストと対立を深めた。また1937年2月に国防軍最高司令部はエルヴィン・ロンメル中佐(当時)をシーラッハの全国青少年指導部との交渉役に任じ、青少年の軍事予備教育は軍に任せるよう、たびたびシーラッハに圧力をかけるようになった。 シーラッハは反ユダヤ主義者だったし、ユーゲントの子供たちにも反ユダヤ主義教育を施していたが、それは狂信的というほどのレベルではなかったという。反ユダヤ主義が暴力など極端な形で現れた時には、上流階級出身のシーラッハの道徳心がそれに反発したのだった。1938年11月9日に発生した「水晶の夜」での野蛮な反ユダヤ主義暴動にはかなり辟易したようで、一部のユーゲント団員の参加を聞いたシーラッハは、ユーゲント団員に対して「このような犯罪的行為には参加してはならない」と命令を下している。ただしシーラッハにはユダヤ人を助けようという行動も見られない。彼はヒトラーを全面的に信じており、こうした反ユダヤ主義暴力行為を聞いても「理念から少々はみだしてしまった行為」程度にしか思わなかったという。
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